「母と暮せば」(2021年再演版) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診ですが、
大井競馬場で新型コロナワクチン集団接種のお手伝いです。
日曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
井上ひさしさんの置き土産とでも言うべき作品の1つで、
先に公開された映画版を元にして、
新たに畑澤聖悟さんが戯曲化し、
初演され好評を博した「母と暮せば」が、
今紀伊國屋ホールで再演されています。
これは戯曲自体は後述のように、
首を傾げるような部分が多いのですが、
演劇の密度としては非常に水準の高い充実した作品です。
何より富田靖子さんと松下洸平さんという初演と同じコンビが、
本当に完成度の高い素晴らしい「純」な芝居を見せ、
栗山民也さんの演出も、
栗山さんとしては珍しく非常に色彩感が豊かで、
緻密な段取りが作品の完成度を高めていました。
栗山さんは地味で色彩感のない、
抽象的な舞台を作ることが多く、
「父と暮せば」の舞台もそのパターンでとても失望したのですが、
今回は舞台となった民家自体も、
非常にリアルかつ緻密に出来ていて、
中央の窓硝子に映る影に時間の移ろいを感じさせたり、
上手の階段で生の世界と死の世界の往来を表現したりと、
細かいところも手が込んでいます。
これね、2人芝居なのですが、
富田さんも松下さんも、ある意味我が道を行くという感じで、
あまり相手に合わせるということはなく、
自分の表現を磨く、というタイプなんですね。
芝居のスタイル自体もかなり違います。
それを、栗山さんが非常に巧みに交通整理をしていて、
特に前半はとても細かく動きや間合いも固めていると感じました。
それにより、ある意味水と油の様な2人が、
実に見事に舞台上で融合することが出来たのです。
栗山さんはこの作品で、
本当に良い仕事をしたと思います。
これは「父と暮せば」と対になる作品で、
いずれも1幕1時間半程度の2人芝居として作られています。
どちらも死者が生者を励ますという構造になっていて、
死者が生者に生きる希望を伝えるということを通して、
人間が死ぬことの無念と、それでも生きることに意味がある、
という普遍的なテーマを、
原爆投下による大量無差別虐殺という、
重い事実を背景に描いたものです。
元になった「父と暮せば」は、
一連の「庶民と戦争」を描いた井上さんの諸作の中で、
その1つの到達点となっている戯曲です。
多くの死者が1人の若い生者を励ますというテーマは、
「頭痛肩こり樋口一葉」という評伝劇の傑作に、
既にその萌芽があり、
ネタばれになるので題名は出しませんが、
後に書かれたある有名作も、
そのテーマの変奏曲として成立していました。
「母と暮せば」はその設定を逆転させている、
という点に特徴があり、
主人公は長崎の原爆で息子を失った母親で、
それから3年後に、生きる希望を失いかけていた母親の元に、
息子の幽霊が出現する、という筋立てになっています。
どうでしょうか?
ちょっと無理がありますよね。
如何にも井上ひさしさんの遺志を継ぐ劇作、
という体裁ですが、
井上さんは矢張りこうした作品は書かないと思うのですね。
構造上、命が次に引き継がれてゆく、
というところに意味があったからです。
死んだのが息子で母親が生き残っていたら、
そういうお話にはなりようがないでしょ。
親を残して子供が死ぬというのは、
これ以上の悲劇はない訳ですが、
それは井上さんが描いてきた世界とは、
またちょっと別物だという気がするのですね。
悲劇の頂点は息子が死んだ瞬間にあって、
それ以降は死者が復活でもしない限りは、
どうしても「後日談」になってしまうからです。
トータルに見て「母と暮せば」は「父と暮せば」と比較して、
戯曲としての結晶度が弱いと思うのですが、
それはこうした点に一番の理由があるような気がします。
エピソードも弱いんですよね。
息子の死も、ただ大学の講義の時に原爆が落ちた、
というだけでは印象が弱いですし、
登場しない息子の恋人の造形も、
ただ「待つ女」という感じで弱く、
身体の不自由な年上の男と結婚したというのも、
何だかなあ、という感じがします。
そんな訳で戯曲自体には不満もあるのですが、
2人のキャストの芝居は絶妙で演出も素晴らしく、
これからも上演を続けて欲しい、
素晴らしい芝居であることは間違いがありません。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診ですが、
大井競馬場で新型コロナワクチン集団接種のお手伝いです。
日曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
井上ひさしさんの置き土産とでも言うべき作品の1つで、
先に公開された映画版を元にして、
新たに畑澤聖悟さんが戯曲化し、
初演され好評を博した「母と暮せば」が、
今紀伊國屋ホールで再演されています。
これは戯曲自体は後述のように、
首を傾げるような部分が多いのですが、
演劇の密度としては非常に水準の高い充実した作品です。
何より富田靖子さんと松下洸平さんという初演と同じコンビが、
本当に完成度の高い素晴らしい「純」な芝居を見せ、
栗山民也さんの演出も、
栗山さんとしては珍しく非常に色彩感が豊かで、
緻密な段取りが作品の完成度を高めていました。
栗山さんは地味で色彩感のない、
抽象的な舞台を作ることが多く、
「父と暮せば」の舞台もそのパターンでとても失望したのですが、
今回は舞台となった民家自体も、
非常にリアルかつ緻密に出来ていて、
中央の窓硝子に映る影に時間の移ろいを感じさせたり、
上手の階段で生の世界と死の世界の往来を表現したりと、
細かいところも手が込んでいます。
これね、2人芝居なのですが、
富田さんも松下さんも、ある意味我が道を行くという感じで、
あまり相手に合わせるということはなく、
自分の表現を磨く、というタイプなんですね。
芝居のスタイル自体もかなり違います。
それを、栗山さんが非常に巧みに交通整理をしていて、
特に前半はとても細かく動きや間合いも固めていると感じました。
それにより、ある意味水と油の様な2人が、
実に見事に舞台上で融合することが出来たのです。
栗山さんはこの作品で、
本当に良い仕事をしたと思います。
これは「父と暮せば」と対になる作品で、
いずれも1幕1時間半程度の2人芝居として作られています。
どちらも死者が生者を励ますという構造になっていて、
死者が生者に生きる希望を伝えるということを通して、
人間が死ぬことの無念と、それでも生きることに意味がある、
という普遍的なテーマを、
原爆投下による大量無差別虐殺という、
重い事実を背景に描いたものです。
元になった「父と暮せば」は、
一連の「庶民と戦争」を描いた井上さんの諸作の中で、
その1つの到達点となっている戯曲です。
多くの死者が1人の若い生者を励ますというテーマは、
「頭痛肩こり樋口一葉」という評伝劇の傑作に、
既にその萌芽があり、
ネタばれになるので題名は出しませんが、
後に書かれたある有名作も、
そのテーマの変奏曲として成立していました。
「母と暮せば」はその設定を逆転させている、
という点に特徴があり、
主人公は長崎の原爆で息子を失った母親で、
それから3年後に、生きる希望を失いかけていた母親の元に、
息子の幽霊が出現する、という筋立てになっています。
どうでしょうか?
ちょっと無理がありますよね。
如何にも井上ひさしさんの遺志を継ぐ劇作、
という体裁ですが、
井上さんは矢張りこうした作品は書かないと思うのですね。
構造上、命が次に引き継がれてゆく、
というところに意味があったからです。
死んだのが息子で母親が生き残っていたら、
そういうお話にはなりようがないでしょ。
親を残して子供が死ぬというのは、
これ以上の悲劇はない訳ですが、
それは井上さんが描いてきた世界とは、
またちょっと別物だという気がするのですね。
悲劇の頂点は息子が死んだ瞬間にあって、
それ以降は死者が復活でもしない限りは、
どうしても「後日談」になってしまうからです。
トータルに見て「母と暮せば」は「父と暮せば」と比較して、
戯曲としての結晶度が弱いと思うのですが、
それはこうした点に一番の理由があるような気がします。
エピソードも弱いんですよね。
息子の死も、ただ大学の講義の時に原爆が落ちた、
というだけでは印象が弱いですし、
登場しない息子の恋人の造形も、
ただ「待つ女」という感じで弱く、
身体の不自由な年上の男と結婚したというのも、
何だかなあ、という感じがします。
そんな訳で戯曲自体には不満もあるのですが、
2人のキャストの芝居は絶妙で演出も素晴らしく、
これからも上演を続けて欲しい、
素晴らしい芝居であることは間違いがありません。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。