「ファーザー」(フロリアン・ゼレール作 映画版) [映画]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
フランスのフロリアン・ゼレールによる戯曲を、
本人が脚色して監督も務めた、
2020年の英仏合作映画が、
今日本公開されています。
フランスの原作を舞台はイギリスに移し、
主役は名優アンソニー・ホプキンスで、
この作品でアカデミー賞の主演男優賞も受賞しています。
脇を固めるのもイギリスの実力派キャストです。
これは面白いですよ。
傑作だと思います。
上映時間が1時間37分というのもとてもいいですね。
物足りない感じは全然ありませんし、
映画というのはこのくらい引き締まっていた方がいいと思います。
これはアンソニー・ホプキンス演じる老齢の主人公が、
認知症を患って進行し、
娘さんが自宅での介護は困難と決断して、
老人ホーム(ナーシングホーム)に入居させるまでの話です。
認知症というのは高齢者社会における、
最大の社会問題ですから、
映画でも勿論多く取り上げられています。
比較的最近でも「アリスのままで」というのがありましたし、
日本では「明日の記憶」や「長いお別れ」などもありましたね。
ただ、テーマがあまりに重いし、それに身近過ぎるでしょ。
映画というのは基本的に娯楽の要素がないと成立しないので、
認知症を娯楽にする、ということは、
そう簡単なことではなく、
上記の3作品も、その点で成功しているとは言えません。
昔は認知症の患者の奇矯な言動を、
笑いものにして娯楽化する、
というようなことが普通に行われていましたが、
勿論今ではそんな演出はあり得ません。
それから演技の問題がありますね。
認知症に限らず、健常者が病気を演技する、
ということ自体が、
今の感覚ではあまり評価をされなくなっています。
でも今回の作品はね、
如何にもフランスらしい知的な方法論で、
認知症という問題を娯楽化することに成功しているんですね。
それがまずとても凄いことです。
どのようにしたかと言うと、
認知症の高齢者の心象風景、その意識の流れを、
そのままに映像化する、という手法を取っているんですね。
最初に娘が1人暮らしの父親を訪れて、
ヘルパーを追い返してしまったことを怒るんですね。
それが次の場面になると、
今度は1人暮らしの筈の父親の家の中に、
傲慢で尊大な男が現れて、
自分は娘の夫だと言い、
それから娘が現れるのですが、
それは最初の場面の娘とは別人なのです。
こうした矛盾した人間関係が続き、
時には時間は円環のように同じ場面を何度も繰り返したり、
過去に不規則に戻ったりもするのですが、
最初は「えっ、これどうなってるの?」と思った観客も、
やがて、これは主人公の老人の心象風景で意識の流れなのだと気づき、
それから「一体何が幻想で何か真実なのか」と、
考えながらドラマを見守ることになるのです。
ミステリーではないのですが、
ミステリー的に観ることが出来るのですね。
最後にはきちんと伏線は回収され、
1つの真実が浮かび上がります。
心理的な裏付けもとても精緻なんですね。
一例を挙げると、
主人公は娘の夫から暴言と暴力を受けるのですが、
その衝撃を受け止めることが出来ないので、
それを最初は別人の行為として再現するんですね。
その後ではその暴力に至る時間を、
何度も何度もループ状に再生し、
そして漸く現実の理解に至るのです。
この映画の原作戯曲は、
2019年に橋爪功さんの主演で、
翻訳劇として上演されています。
ただ、認知症のお芝居で新劇でしょ、
正直とても観に行こうとは思いませんでした。
観劇レポートを読むと、
頻回の暗転でエピソード的に場を繋いでいる演出のようで、
それであると意識の流れを描くという観点からは、
暗転が時間の経過を感じさせてしまうので、
映画の方が向いているようにも感じました。
ただ、同じ人物を複数の人間が演じて、
同じ舞台で入れ替わるような演出は、
映画より舞台の方が効果的、
という気もします。
翻訳劇の時の評論家の文章に、
認知症が進行して、
最後には自分の名前すら言えない状態になり…
というような表現があったのですが、
舞台はともかくとして、
映画版で観る限り、
その解釈は間違っていると思うんですね。
この作品は認知症の進行を見せているのではなく、
主人公が老人ホームに入った時点での、
意識の流れが描かれているんですね。
その証拠に最初に出て来る謎の人物は、
老人ホームの職員であったという伏線があります。
つまり、この映画は主人公の一瞬の時間を、
永遠に拡大して見せているものなのだ、
という言い方が出来ると思います。
これね、認知症の話である割には、
主人公は結構理知的で明晰な部分がありますよね。
アンソニー・ホプキンスの演技も、
当惑はしていても、
進行した認知症という感じはしないですよね。
それがおかしいのではないか、
という意見もあると思うのですが、
そうではないんですね。
これは魂がある、という立場での認知症論なんですね。
魂があるとしたら、それが劣化してボケる、
ということはない筈でしょ。
だから、明晰な魂が、
認知症のために現実と適合することが出来ずに、
シュールな世界で苦悩している、
というのが今回描かれている世界なんですね。
そうした目で見ると、
アンソニー・ホプキンスの演技は、
その本質を理解した見事なものだと言えるのです。
今回の映画は、
認知症の心象世界を娯楽化した、
非常に精緻でユニークな作品で、
理知的な世界が際立っていながら、
ラストの抒情的な雰囲気も素晴らしく、
全ての映画ファンにお勧めしたい傑作だと思います。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
フランスのフロリアン・ゼレールによる戯曲を、
本人が脚色して監督も務めた、
2020年の英仏合作映画が、
今日本公開されています。
フランスの原作を舞台はイギリスに移し、
主役は名優アンソニー・ホプキンスで、
この作品でアカデミー賞の主演男優賞も受賞しています。
脇を固めるのもイギリスの実力派キャストです。
これは面白いですよ。
傑作だと思います。
上映時間が1時間37分というのもとてもいいですね。
物足りない感じは全然ありませんし、
映画というのはこのくらい引き締まっていた方がいいと思います。
これはアンソニー・ホプキンス演じる老齢の主人公が、
認知症を患って進行し、
娘さんが自宅での介護は困難と決断して、
老人ホーム(ナーシングホーム)に入居させるまでの話です。
認知症というのは高齢者社会における、
最大の社会問題ですから、
映画でも勿論多く取り上げられています。
比較的最近でも「アリスのままで」というのがありましたし、
日本では「明日の記憶」や「長いお別れ」などもありましたね。
ただ、テーマがあまりに重いし、それに身近過ぎるでしょ。
映画というのは基本的に娯楽の要素がないと成立しないので、
認知症を娯楽にする、ということは、
そう簡単なことではなく、
上記の3作品も、その点で成功しているとは言えません。
昔は認知症の患者の奇矯な言動を、
笑いものにして娯楽化する、
というようなことが普通に行われていましたが、
勿論今ではそんな演出はあり得ません。
それから演技の問題がありますね。
認知症に限らず、健常者が病気を演技する、
ということ自体が、
今の感覚ではあまり評価をされなくなっています。
でも今回の作品はね、
如何にもフランスらしい知的な方法論で、
認知症という問題を娯楽化することに成功しているんですね。
それがまずとても凄いことです。
どのようにしたかと言うと、
認知症の高齢者の心象風景、その意識の流れを、
そのままに映像化する、という手法を取っているんですね。
最初に娘が1人暮らしの父親を訪れて、
ヘルパーを追い返してしまったことを怒るんですね。
それが次の場面になると、
今度は1人暮らしの筈の父親の家の中に、
傲慢で尊大な男が現れて、
自分は娘の夫だと言い、
それから娘が現れるのですが、
それは最初の場面の娘とは別人なのです。
こうした矛盾した人間関係が続き、
時には時間は円環のように同じ場面を何度も繰り返したり、
過去に不規則に戻ったりもするのですが、
最初は「えっ、これどうなってるの?」と思った観客も、
やがて、これは主人公の老人の心象風景で意識の流れなのだと気づき、
それから「一体何が幻想で何か真実なのか」と、
考えながらドラマを見守ることになるのです。
ミステリーではないのですが、
ミステリー的に観ることが出来るのですね。
最後にはきちんと伏線は回収され、
1つの真実が浮かび上がります。
心理的な裏付けもとても精緻なんですね。
一例を挙げると、
主人公は娘の夫から暴言と暴力を受けるのですが、
その衝撃を受け止めることが出来ないので、
それを最初は別人の行為として再現するんですね。
その後ではその暴力に至る時間を、
何度も何度もループ状に再生し、
そして漸く現実の理解に至るのです。
この映画の原作戯曲は、
2019年に橋爪功さんの主演で、
翻訳劇として上演されています。
ただ、認知症のお芝居で新劇でしょ、
正直とても観に行こうとは思いませんでした。
観劇レポートを読むと、
頻回の暗転でエピソード的に場を繋いでいる演出のようで、
それであると意識の流れを描くという観点からは、
暗転が時間の経過を感じさせてしまうので、
映画の方が向いているようにも感じました。
ただ、同じ人物を複数の人間が演じて、
同じ舞台で入れ替わるような演出は、
映画より舞台の方が効果的、
という気もします。
翻訳劇の時の評論家の文章に、
認知症が進行して、
最後には自分の名前すら言えない状態になり…
というような表現があったのですが、
舞台はともかくとして、
映画版で観る限り、
その解釈は間違っていると思うんですね。
この作品は認知症の進行を見せているのではなく、
主人公が老人ホームに入った時点での、
意識の流れが描かれているんですね。
その証拠に最初に出て来る謎の人物は、
老人ホームの職員であったという伏線があります。
つまり、この映画は主人公の一瞬の時間を、
永遠に拡大して見せているものなのだ、
という言い方が出来ると思います。
これね、認知症の話である割には、
主人公は結構理知的で明晰な部分がありますよね。
アンソニー・ホプキンスの演技も、
当惑はしていても、
進行した認知症という感じはしないですよね。
それがおかしいのではないか、
という意見もあると思うのですが、
そうではないんですね。
これは魂がある、という立場での認知症論なんですね。
魂があるとしたら、それが劣化してボケる、
ということはない筈でしょ。
だから、明晰な魂が、
認知症のために現実と適合することが出来ずに、
シュールな世界で苦悩している、
というのが今回描かれている世界なんですね。
そうした目で見ると、
アンソニー・ホプキンスの演技は、
その本質を理解した見事なものだと言えるのです。
今回の映画は、
認知症の心象世界を娯楽化した、
非常に精緻でユニークな作品で、
理知的な世界が際立っていながら、
ラストの抒情的な雰囲気も素晴らしく、
全ての映画ファンにお勧めしたい傑作だと思います。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。