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「ケストナーの長ぐつをはいたねこ」 [小説]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診ですが、
死に物狂いでレセプトをやらなくてはいけない、
という感じです。

何かねえ、調子は良くないんですよね。
まず腰が痛くて仕方がありません。
色々な意味で人生のタイムリミットが近いのかな、
今どうにかしないともうどうにもならないのかな、
というようには思えるのですが、
なかなかどうも踏ん張りがききません。
でも毎日このまま過ぎて行くようでは、
無為に過ごすことにもうあまり意味がないな、
というようには強く思えるので、
どうにかこうにか、
エンジンを掛けてはゆきたいと思っています。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ケストナー 長ぐつをはいたねこ.jpg
最近の一番の喜びは、
この「ケストナーの長ぐつをはいたねこ」の絵本を、
古書で手に入れることが出来たことです。

これね、有名なエーリヒ・ケストナーが、
有名な古いお話しを自分の言葉で書き直して、
挿絵を特別に頼んで絵本にしたシリーズの1作なのですね。

本国ドイツで1950年に刊行され、
日本版は1967年に出版されています。

子供の時にこのシリーズの、
「長ぐつをはいたねこ」と「ほらふき男爵のぼうけん」が家にあって、
何度も何度も読んで、
その言い回しに、
その言葉に熱烈に恋をしたのです。

僕の読書の初体験で、
最初の愛読書になった1冊でした。

お話は勿論同じなんです。
同じ「長ぐつをはいたねこ」なんですが、
語り口が違うのです。
同じ話がその語り口だけでこれだけ変わるのかと思うと、
それはもう「言葉」の魔法を感じる思いがします。

それが当時の僕は大人になるにつれ、
この素晴らしい本に一時期興味を失って、
いつしか本は何処かに消えてしまったのです。

しまった、
あの宝物を取り戻さなくちゃ、
と思った時は後の祭りでした。

その後1993年に筑摩書房から、
ケストナーの「ほらふき男爵」という単行本が出て、
これは絵本6冊を新訳で再構成したものでした。
2000年には新書版でも再販されています。

これを新刊で本屋さんで見た時には興奮しました。

あの子供の日の感動に再会できると思ったからです。
その帯には「名訳で贈る」と書かれていたので、
その思いは更に高まりました。

ところが…

読んでみると、どうもおかしいのです。

その「名訳」と帯に書かれている新訳は、
明らかに僕の読んだ「長ぐつをはいたねこ」ではなくて、
まがい物の偽物でした。
僕の愛読書の文章とは別に、
新たに他の訳者が翻訳し直したものだったのです。

そう思ってみると、
自分で「名訳で贈る」というセンスが、
ちょっと傲慢で酷いとも思いました。

幾ら出版社から「こうした帯にしますよ」と言われたって、
「いやいや自分で名訳と言うのはちょっと…」
と言うのがまっとうな考え方ではないでしょうか?

今回多分50年ぶりくらいに「本物」と再会して、
その思いを強くしました。

ちょっと実例をお示しします。
物語のオープニングです。

まず、1993年の新訳から…

「むかし、ひとりの粉屋がいた。粉ひき小屋には風車があった。三人の息子がいた。あたりまえの話だが、息子たちは、ちいさいときから粉ひき小屋で働いてきた。食べさせてもらうのだ、給金はなし、三年に一度、新しい服がもらえる。こともなく毎日がすぎていった。それからもずっと、同じように日がすぎていくはずだった。ところが、そうはならなかった。ある日、粉屋であれ王であれ、だれにも訪れるおむかえがきた。病いの床について、そのうち、死んだ。」

どうでしょう。
これだけ読むと、
こんなものかな、と思いますよね。
可もなし不可もなし、という感じでしょ。

それでは1967年の僕が惚れ込んだ翻訳から…

「むかし、あるところに、粉屋がおりました。粉屋は、風車のついた粉ひき小屋に、三人のむすこといっしょに、住んでいました。三人のむすこは、あたりまえのことですが、小さいときから、父おやの粉ひき場ではたらいていました。そして、そのかわりに、父おやから、たべるものと、のむものと、そして、三年ごとに新しいようふくとをもらっていました。それで、みんなうまくいっていましたから、まだまだ、そのままやっていけそうでしたが、あいにく、そうはいきませんでした。というのは、ある日、粉屋は、粉屋だろうが王さまだろうが、人間ならだれでも、いつかは、めぐりあうことに、めぐりあったからです。つまり、粉屋は、とこについて、死んでしまったのです。」

どうかなあ。
それほど違いがないと思いますか?

僕の大好きな翻訳はね、
今思うと直訳ではなくて、
かなり饒舌なんですね。
繰り返しのリズムを大事にしていて、
語り聞かせでリズムを奏でるように出来ているんですね。

子供の時に、
「粉屋の生活がある日変わってしまった。誰にも訪れる何かが来た」
というところで、
「えっ、何が来たんだろう」
と思って、
「粉屋(父親)の死」というショッキングなどんでん返しがあって、
それでとてもショックを受けたんですね。

これね、
これだけで1つの作品、
1つのショートショートみたいにオチがついているんですね。

しかもそのオチが、
子供には底知れない謎である、
「死」なんですね。

素晴らしいセンスだな、と思います。

それに比べて新訳はね、
多分これが直訳なんですね。
その通りに訳しているのです。
でも、絶対に古い訳を読んでいますし、
それに影響を受けているでしょ。
「粉屋」とか「とこにつく」とか、
直訳で出て来る言葉ではなくて、
昔の訳を読んでいるから出ていますよね。
それでいて、なるべく旧訳を変えようという意図があるので、
文章にリズムがなくなっているんですね。

控え目に言って、台無しだと思います。

しかもね、
新訳の訳者は、
この短い章が、
ショートショートだということに気づいていないんですね。
「父親の死」というオチが、
子供にとって意外でショッキングだということに、
気づいていないんですね。
だから最後の1文の前に、
「おむかえがきた」という言い方で、
先にネタを割ってしまっているのです。

そこが一番の違いだと思います。

最近は古い作品を今の言葉で訳し直して、
「新訳で面目を一新」みたいなのが多いですよね。
でも、どうなのかな。
日本語というのはどんどん劣化している言葉ですよね。
社会も劣化していてとても進歩しているとは思えませんが、
言葉も劣化してどんどん駄目になっていますよね。
そもそも古い作品は古い時代のものなのですから、
別に新しくすることが良いことではないのではないかしら。
それを翻訳した古い日本語に出逢うことも、
大切なことではないかしら。
そんな風に思いました。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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