「まぼろしの市街戦」 [映画]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前午後とも石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
「まぼろしの市街戦」は、
1967年公開のフランス・イタリア合作映画で、
昔から結構偏愛する方の多い作品です。
日本公開は同じ1967年ですが、
かなり頻繁にテレビで流れ、
東京圏では東京12チャンネルの、
お昼の時間帯の常連作品でした。
僕も小学生の頃、
風邪で学校を休んだ時などに、
熱に浮かされたような状態で、
何度もこの作品を観ました。
ちょっとトラウマ的な強烈さがあって、
その時の印象は今でも僕の人生観に、
ある種の影響を与えています。
最近4K修復版でリバイバルもされたようなので、
その時に観られた方もいるかと思います。
これはただ、
学校をずる休みして観るような感じの映画ですね。
「ずる休みしていいよ。休んじゃいなよ」
と言ってくれてるようなところがあるでしょ。
個人的には映画館で座って観るような映画じゃないな、
というように思っています。
モンティパイソンのテレビ放送が始まったのと、
同じころにテレビで見たのですが、
ちょっと似たテイストがあるでしょ。
また声優陣が同じだったので、
余計にそんな気分で見たのだと思います。
物語は第一次大戦下のフランスの田舎町が舞台で、
ドイツ軍が時限爆弾を仕掛けて撤退した後に、
出来損ないと軍隊でもいじめにあっていた、
冴えない通信兵が、
たった一人で爆弾の解除を命じられて、
町に潜入するのです。
町の住人は爆弾のことを知って、
全て逃げ出してしまうのですが、
サーカスの動物と、
精神病院の患者さん達が、
取り残されてしまいます。
患者さん達は門を出て、
これ幸いと町の住人に成りすまします。
動物が町に放たれ、
着飾ったどの時代とも知れない扮装の、
患者さん達が町に溢れ、
町は奇跡的なユートピアのような空間に変貌します。
そこに入った通信兵は、
偽の町の人達に、
自分達の国王として崇められ、
どうにか仕掛けられた爆弾を解除しようと、
奮闘することになるのです。
爆弾は何とか解除されるのですが、
敵対する軍隊が、
町に潜入し、
互いに戦って両者全滅してしまいます。
その光景を見た患者さん達は、
「何て馬鹿馬鹿しい」と衣装を投げ捨て、
再び精神病院の中に戻ってしまいます。
白日夢のような町の情景が美しく、
子供心にも、
人生とは何だろう、と考えてしまう、
魅力的な作品です。
ただ、精神疾患の患者さんを、
一種の被差別者の象徴として使っているので、
今ではちょっと微妙で、
成立はし難い作品です。
この作品の中の精神病院の患者さんというのは、
現実の世界とは別種の世界に生きている人達、
という意味合いで、
現在の精神疾患の患者さん、
という意味合いとは違うのですが、
それが混同して捉えられてしまう危険が、
今では生じてしまうからです。
作品の中段に象徴的な場面があって、
もう爆弾の解除は無理と考えた通信兵が、
町の患者さんを救おうと、
自ら自分が王だと名乗り、
王の命令で町の人を外に逃がそうとするのですが、
住人達は町の門から外に出ようとしません。
それで通信兵は、
「お前らは○○○○だから分からないんだ」
みたいに公爵と呼ばれる患者さんをなじると、
公爵は真顔になって、
「それなら人殺しの世界に戻りなさい」
と言うのです。
本来はこうした台詞があると、
戦争が馬鹿馬鹿しいので、
○○○○を装っていた、
ということになり、
設定の面白さが崩れてしまうのですが、
作り手としては、
矢張り批評的な台詞をちょっと挿んだ方が、
作品の意図が伝わり易い、
という判断があったのではないかと思います。
深読みをする評論家めいた観客に対して、
少しサービスをして見せた訳です。
その証拠に、
こうした場面は映画の中では、
この一瞬しか存在しません。
今観返すと「蛇足だなあ」という感じがするのですが、
子供の頃に観た時には、
こういうところが胸に刺さるんですね。
純真というのとはちょっと違うと思うのですが、
まあ子供は騙され易いということの裏返しなのかも知れません。
それはともかく…
僕は小学校の低学年の時に、
最初にこの作品を観て、
その時は○○○○はそのまま発声されていました。
それが高学年の時に観ると、
同じ台詞は消えていて、
無音で口がパクパクしているだけの、
なんだか訳の分からない吹き替えになっていました。
後年購入したDVDに収録されている吹き替え音声は、
昭和49年の物と書かれていて、
僕の聞いたものと同じだと思いますが、
もう当該部位は消音されているパターンでした。
要するに元の音源から、
既に消去されてしまったのだと思います。
言葉が消される、という事実に、
非常に子供心にショックを受けたのですが、
この頃からそうした修正が、
行なわれるようになったのです。
勿論仕方のないことだと思いますし、
同じテーマを扱うのにも、
今後は別個の表現が必要とされるのだと思いますが、
何やら切ない気分のすることも事実です。
微妙な問題なので、
今日はこれ以上は触れません。
この作品では冴えない下っ端の兵士が、
幻想の町で王になるのですが、
こうした構造は多くの物語で、
一種の原型のような構造となっています。
デヴィット・リーンの「アラビアのロレンス」は、
僕の大好きな映画ですが、
史実を下敷きにしたようでいて、
実際にはイギリスでは冴えない変わり者の軍人であったロレンスが、
「野蛮人」の国の王になり、
最後はその王位から転落する、
という物語です。
ネバー・エンディング・ストーリーに典型的なファンタジーも、
苛められる冴えない少年が、
異世界ではヒーローになり、
怪物を自分に従わせる物語です。
つまり、
これは構造的には、
被差別の立場にある主人公が、
自分が優位に立てる世界で、
自分とは異質の他者を支配し、
差別する物語です。
僕は別に、
こうした話が良くないと言っている訳ではありません。
人間にとっての娯楽というのは、
良かれ悪しかれそうしたものなのです。
その構造をそのまま描くと、
「差別は良くない」というお行儀の良い理性に反するので、
ファンタジーにしたり、
これこれの時代背景があるので仕方がない、
などと、
色々な言い訳を用意して、
その本質をカモフラージュするのです。
ただ、「まぼろしの市街戦」では、
主人公の兵士は、
○○達のある種の温情によって、
王にしてもらうのです。
それはたちまちに反転してしまう脆いごっこ遊びで、
しかしそうした「遊び」をもってしか、
人間同士の殺し合いという現実に、
立ち向かう方法が存在しないのです。
つまり、現実世界の差別被差別の関係と、
幻想の町での反転した関係とは、
構造自体が異なっている訳で、
映画のフェイクの世界こそが、
真のユートピアを提示出来るのだ、
という作り手の矜持のようなものを、
感じることが出来るのです。
そこにこの作品の色褪せない新しさがあると思います。
今日は僕の好きな映画の話でした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前午後とも石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
「まぼろしの市街戦」は、
1967年公開のフランス・イタリア合作映画で、
昔から結構偏愛する方の多い作品です。
日本公開は同じ1967年ですが、
かなり頻繁にテレビで流れ、
東京圏では東京12チャンネルの、
お昼の時間帯の常連作品でした。
僕も小学生の頃、
風邪で学校を休んだ時などに、
熱に浮かされたような状態で、
何度もこの作品を観ました。
ちょっとトラウマ的な強烈さがあって、
その時の印象は今でも僕の人生観に、
ある種の影響を与えています。
最近4K修復版でリバイバルもされたようなので、
その時に観られた方もいるかと思います。
これはただ、
学校をずる休みして観るような感じの映画ですね。
「ずる休みしていいよ。休んじゃいなよ」
と言ってくれてるようなところがあるでしょ。
個人的には映画館で座って観るような映画じゃないな、
というように思っています。
モンティパイソンのテレビ放送が始まったのと、
同じころにテレビで見たのですが、
ちょっと似たテイストがあるでしょ。
また声優陣が同じだったので、
余計にそんな気分で見たのだと思います。
物語は第一次大戦下のフランスの田舎町が舞台で、
ドイツ軍が時限爆弾を仕掛けて撤退した後に、
出来損ないと軍隊でもいじめにあっていた、
冴えない通信兵が、
たった一人で爆弾の解除を命じられて、
町に潜入するのです。
町の住人は爆弾のことを知って、
全て逃げ出してしまうのですが、
サーカスの動物と、
精神病院の患者さん達が、
取り残されてしまいます。
患者さん達は門を出て、
これ幸いと町の住人に成りすまします。
動物が町に放たれ、
着飾ったどの時代とも知れない扮装の、
患者さん達が町に溢れ、
町は奇跡的なユートピアのような空間に変貌します。
そこに入った通信兵は、
偽の町の人達に、
自分達の国王として崇められ、
どうにか仕掛けられた爆弾を解除しようと、
奮闘することになるのです。
爆弾は何とか解除されるのですが、
敵対する軍隊が、
町に潜入し、
互いに戦って両者全滅してしまいます。
その光景を見た患者さん達は、
「何て馬鹿馬鹿しい」と衣装を投げ捨て、
再び精神病院の中に戻ってしまいます。
白日夢のような町の情景が美しく、
子供心にも、
人生とは何だろう、と考えてしまう、
魅力的な作品です。
ただ、精神疾患の患者さんを、
一種の被差別者の象徴として使っているので、
今ではちょっと微妙で、
成立はし難い作品です。
この作品の中の精神病院の患者さんというのは、
現実の世界とは別種の世界に生きている人達、
という意味合いで、
現在の精神疾患の患者さん、
という意味合いとは違うのですが、
それが混同して捉えられてしまう危険が、
今では生じてしまうからです。
作品の中段に象徴的な場面があって、
もう爆弾の解除は無理と考えた通信兵が、
町の患者さんを救おうと、
自ら自分が王だと名乗り、
王の命令で町の人を外に逃がそうとするのですが、
住人達は町の門から外に出ようとしません。
それで通信兵は、
「お前らは○○○○だから分からないんだ」
みたいに公爵と呼ばれる患者さんをなじると、
公爵は真顔になって、
「それなら人殺しの世界に戻りなさい」
と言うのです。
本来はこうした台詞があると、
戦争が馬鹿馬鹿しいので、
○○○○を装っていた、
ということになり、
設定の面白さが崩れてしまうのですが、
作り手としては、
矢張り批評的な台詞をちょっと挿んだ方が、
作品の意図が伝わり易い、
という判断があったのではないかと思います。
深読みをする評論家めいた観客に対して、
少しサービスをして見せた訳です。
その証拠に、
こうした場面は映画の中では、
この一瞬しか存在しません。
今観返すと「蛇足だなあ」という感じがするのですが、
子供の頃に観た時には、
こういうところが胸に刺さるんですね。
純真というのとはちょっと違うと思うのですが、
まあ子供は騙され易いということの裏返しなのかも知れません。
それはともかく…
僕は小学校の低学年の時に、
最初にこの作品を観て、
その時は○○○○はそのまま発声されていました。
それが高学年の時に観ると、
同じ台詞は消えていて、
無音で口がパクパクしているだけの、
なんだか訳の分からない吹き替えになっていました。
後年購入したDVDに収録されている吹き替え音声は、
昭和49年の物と書かれていて、
僕の聞いたものと同じだと思いますが、
もう当該部位は消音されているパターンでした。
要するに元の音源から、
既に消去されてしまったのだと思います。
言葉が消される、という事実に、
非常に子供心にショックを受けたのですが、
この頃からそうした修正が、
行なわれるようになったのです。
勿論仕方のないことだと思いますし、
同じテーマを扱うのにも、
今後は別個の表現が必要とされるのだと思いますが、
何やら切ない気分のすることも事実です。
微妙な問題なので、
今日はこれ以上は触れません。
この作品では冴えない下っ端の兵士が、
幻想の町で王になるのですが、
こうした構造は多くの物語で、
一種の原型のような構造となっています。
デヴィット・リーンの「アラビアのロレンス」は、
僕の大好きな映画ですが、
史実を下敷きにしたようでいて、
実際にはイギリスでは冴えない変わり者の軍人であったロレンスが、
「野蛮人」の国の王になり、
最後はその王位から転落する、
という物語です。
ネバー・エンディング・ストーリーに典型的なファンタジーも、
苛められる冴えない少年が、
異世界ではヒーローになり、
怪物を自分に従わせる物語です。
つまり、
これは構造的には、
被差別の立場にある主人公が、
自分が優位に立てる世界で、
自分とは異質の他者を支配し、
差別する物語です。
僕は別に、
こうした話が良くないと言っている訳ではありません。
人間にとっての娯楽というのは、
良かれ悪しかれそうしたものなのです。
その構造をそのまま描くと、
「差別は良くない」というお行儀の良い理性に反するので、
ファンタジーにしたり、
これこれの時代背景があるので仕方がない、
などと、
色々な言い訳を用意して、
その本質をカモフラージュするのです。
ただ、「まぼろしの市街戦」では、
主人公の兵士は、
○○達のある種の温情によって、
王にしてもらうのです。
それはたちまちに反転してしまう脆いごっこ遊びで、
しかしそうした「遊び」をもってしか、
人間同士の殺し合いという現実に、
立ち向かう方法が存在しないのです。
つまり、現実世界の差別被差別の関係と、
幻想の町での反転した関係とは、
構造自体が異なっている訳で、
映画のフェイクの世界こそが、
真のユートピアを提示出来るのだ、
という作り手の矜持のようなものを、
感じることが出来るのです。
そこにこの作品の色褪せない新しさがあると思います。
今日は僕の好きな映画の話でした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。