歌舞伎座七月大歌舞伎(2019年夜の部) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
このところ少し歌舞伎座にも足を運んでいます。
まだ記事にしていませんが、
6月には三谷幸喜さんの新作歌舞伎を観て、
今月は海老蔵、来月は玉三郎と中車の舞台に足を運ぶ予定です。
今回の夜の部は、
外題は違うのですが、
実際には名作「義経千本桜」の通し上演で、
それを海老蔵の13役早変わりで上演する、
という趣向です。
こういう原作を適当に役者に合わせてアレンジして上演するのは、
キワモノで邪道のような感じがしますが、
江戸時代にはむしろ普通のことで、
有名なところで「東海道四谷怪談」は、
忠臣蔵をアレンジして成立した作品です。
過去の作品を古典として、
台詞も演出も同じで再演するようになったのは、
歌舞伎を藝術にしようと悪戦苦闘した、
明治以降の習慣なのです。
最近では先代猿之助が、復活狂言として、
こうした趣向作を多く上演していて、
「伽羅先代萩」の世界をアレンジして早変わりショー化した、
「伊達の十役」はその代表的な成果です。
今回の上演の特徴は、
「義経千本桜」の名場面自体は、
適宜カットを加えてダイジェスト化する程度で、
台詞も演出もほぼ原作通りにしている一方で、
主な13の役柄を全て海老蔵1人が演じるという、
早変わりショーの趣向を導入していることです。
これね、
先代猿之助であれば、
場面にメリハリを付けて、
お芝居でじっくり見せるところは、
むしろ早変わりはせず、
段取り的な部分を早変わりショーにして、
娯楽作として楽しめるものにする、
というような発想であったのですね。
しかし、今回の海老蔵版は、
全ての場面で主だった役はすべて海老蔵が演じる、
という趣向になっているので、
正直相当無理のある作品になっていました。
一番問題だと思ったのは「鮨屋」で、
父親と道楽息子と高貴のお方の3人を全て演じているのですが、
この3人はクライマックスでは同時に舞台に存在しているのですね。
それをどうするのかと言うと、
1人は海老蔵で、他の2人は海老蔵のお面を被っているのです。
この名場面でそれはないでしょ。
ひどいよね。
父親と息子がいる場面で、
確かに父親には台詞は少ないのです。
しかし、何も言わない父親の受けの芝居も、
当然大きな意味を持っているのです。
それをただの早変わりショーにして、
お面を被ってスタントが俯いているだけじゃ、
芝居として成立しないですよね。
多分本人やスタッフも、
やっていて「ひどいな。失敗したな」とは思っていると思うですよね。
どうして止められなかったのかな、
とてもとてもガッカリです。
四の切りはほぼ澤瀉屋型での上演でしたが、
海老蔵はキツネ言葉が全くダメなので、
もう少し勉強して精度を上げて欲しいですよね。
これじゃ成立していません。
面白いところもあるんですよね。
鮨屋の前段のところで、
北嵯峨庵室という、通常絶対やらない場面を、
入れているんです。
これが意外に良くて、
小金吾と権太の2役は、
海老蔵悪くないんですよね。
児太郎と子役が2役を兼ねるのも理にかなっていますよね。
この辺はとてもいいなあ、と思って観ていると、
権太の父親で出て来るでしょ。
そりゃ無理があるよ。
早変わりにすらなっていないもん。
総じて何か大切なものを忘れていますよね。
早変わりってそんなものじゃないよ。
ハッとするような場面もなく、
お面をつけている役者が何人も、
舞台をうろうろしているだけじゃ話にならないでしょ。
せめて、鮨屋は海老蔵は権太1役でやるべきだったと思います。
良い場面であっただけに、それは悔やまれてなりません。
復活狂言に関してはね、
先代猿之助の見識が大きかったと思うんですよね。
当時は「古典を踏みにじっている」というようにも言われた訳ですけど、
それでも踏みとどまるところは踏みとどまっていて、
何より歌舞伎愛が強かったし、理論家ですよね。
海老蔵に歌舞伎愛がない、
というようには勿論思わないのですが、
こうした企画を自分でマネージメントする、
というタイプではないと思うので、
周囲の人がもっと企画を練り上げて欲しいですよね。
当代歌舞伎を代表する荒事の肉体が、
これじゃ詰まらないと思うのです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
このところ少し歌舞伎座にも足を運んでいます。
まだ記事にしていませんが、
6月には三谷幸喜さんの新作歌舞伎を観て、
今月は海老蔵、来月は玉三郎と中車の舞台に足を運ぶ予定です。
今回の夜の部は、
外題は違うのですが、
実際には名作「義経千本桜」の通し上演で、
それを海老蔵の13役早変わりで上演する、
という趣向です。
こういう原作を適当に役者に合わせてアレンジして上演するのは、
キワモノで邪道のような感じがしますが、
江戸時代にはむしろ普通のことで、
有名なところで「東海道四谷怪談」は、
忠臣蔵をアレンジして成立した作品です。
過去の作品を古典として、
台詞も演出も同じで再演するようになったのは、
歌舞伎を藝術にしようと悪戦苦闘した、
明治以降の習慣なのです。
最近では先代猿之助が、復活狂言として、
こうした趣向作を多く上演していて、
「伽羅先代萩」の世界をアレンジして早変わりショー化した、
「伊達の十役」はその代表的な成果です。
今回の上演の特徴は、
「義経千本桜」の名場面自体は、
適宜カットを加えてダイジェスト化する程度で、
台詞も演出もほぼ原作通りにしている一方で、
主な13の役柄を全て海老蔵1人が演じるという、
早変わりショーの趣向を導入していることです。
これね、
先代猿之助であれば、
場面にメリハリを付けて、
お芝居でじっくり見せるところは、
むしろ早変わりはせず、
段取り的な部分を早変わりショーにして、
娯楽作として楽しめるものにする、
というような発想であったのですね。
しかし、今回の海老蔵版は、
全ての場面で主だった役はすべて海老蔵が演じる、
という趣向になっているので、
正直相当無理のある作品になっていました。
一番問題だと思ったのは「鮨屋」で、
父親と道楽息子と高貴のお方の3人を全て演じているのですが、
この3人はクライマックスでは同時に舞台に存在しているのですね。
それをどうするのかと言うと、
1人は海老蔵で、他の2人は海老蔵のお面を被っているのです。
この名場面でそれはないでしょ。
ひどいよね。
父親と息子がいる場面で、
確かに父親には台詞は少ないのです。
しかし、何も言わない父親の受けの芝居も、
当然大きな意味を持っているのです。
それをただの早変わりショーにして、
お面を被ってスタントが俯いているだけじゃ、
芝居として成立しないですよね。
多分本人やスタッフも、
やっていて「ひどいな。失敗したな」とは思っていると思うですよね。
どうして止められなかったのかな、
とてもとてもガッカリです。
四の切りはほぼ澤瀉屋型での上演でしたが、
海老蔵はキツネ言葉が全くダメなので、
もう少し勉強して精度を上げて欲しいですよね。
これじゃ成立していません。
面白いところもあるんですよね。
鮨屋の前段のところで、
北嵯峨庵室という、通常絶対やらない場面を、
入れているんです。
これが意外に良くて、
小金吾と権太の2役は、
海老蔵悪くないんですよね。
児太郎と子役が2役を兼ねるのも理にかなっていますよね。
この辺はとてもいいなあ、と思って観ていると、
権太の父親で出て来るでしょ。
そりゃ無理があるよ。
早変わりにすらなっていないもん。
総じて何か大切なものを忘れていますよね。
早変わりってそんなものじゃないよ。
ハッとするような場面もなく、
お面をつけている役者が何人も、
舞台をうろうろしているだけじゃ話にならないでしょ。
せめて、鮨屋は海老蔵は権太1役でやるべきだったと思います。
良い場面であっただけに、それは悔やまれてなりません。
復活狂言に関してはね、
先代猿之助の見識が大きかったと思うんですよね。
当時は「古典を踏みにじっている」というようにも言われた訳ですけど、
それでも踏みとどまるところは踏みとどまっていて、
何より歌舞伎愛が強かったし、理論家ですよね。
海老蔵に歌舞伎愛がない、
というようには勿論思わないのですが、
こうした企画を自分でマネージメントする、
というタイプではないと思うので、
周囲の人がもっと企画を練り上げて欲しいですよね。
当代歌舞伎を代表する荒事の肉体が、
これじゃ詰まらないと思うのです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。