「ハッピーエンド」(ミヒャエル・ハネケ監督新作) [映画]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
一筋縄ではいかない、
如何にもヨーロッパ的で、
ブラックでひねくれていて残酷で、
それでいて家族や人間というものに対する、
奇妙なほど純粋な視点と愛情にも満ちた、
オーストリアのミヒャエル・ハネケ監督の新作が、
今ロードショー公開されています。
以前「隠された記憶」という作品を観て、
「衝撃的なラスト」という宣伝だったのに、
最後まで観ても全く訳が分からず、
モヤモヤする思いだけを抱えて観終わったことがあったので、
今回はなるべく予備知識も得た上で、
真剣に細部を見逃さずに鑑賞しようと劇場に足を運びました。
ただ今回の作品は意外に分かりやすくて、
ハネケ監督お馴染みの家族崩壊劇なのですが、
最初から最後まで筋立ては明確で晦渋さはなく、
ラストもなかなか衝撃的で、
オープニングと見事に呼応している辺りもさすがだと思います。
勿論物語は省略が多く、
台詞を廃したサイレント的な長回しを含めて、
最初から最後まで独自のゆったりとしたテンポで、
全体が支配されているので、
それほど観やすいという映画ではないのですが、
それでも「隠された記憶」のように、
観客が投げ出されたような状態になることはなく、
ハネケ監督の独特の世界に、
ゆっくりと身を委ね、
その体験を共にすることが出来る作品に仕上がっていました。
以下少しネタバレがあります。
先入観なく作品を観たい方は、
鑑賞後にお読み下さい。
観る値打ちは間違いなくある作品です。
今回の映画は前作「愛、アムール」とほぼ同じ設定の親子を、
前作と同じ2人の役者さんが演じ、
そこに娘より1つ世代が下の少女を登場させることにより、
コミュニケーション障害の塊のようなフランスのある裕福な家族が、
虚構の沼の中に静かに沈んで行く様を描きます。
これはネタ割れをして良いと思うのですが、
今回の「観客の視点」としての少女は、
2005年の日本の、
女子高生がタリウムで母親の毒殺を企て、
それを冷徹に記録に残してネットで公開していた、
という衝撃的な事件を元にしていて、
その「死を観察し記録する少女」が、
フランスの没落した名家に入り込み、
その崩壊をつぶさに記録してゆく、
という物語になっています。
SNSやスマホの画面が、
頻繁にその観察の器具として登場するのがミソで、
宣伝のポスターも、
よく見るとスマホの画面になっていますし、
映画もオープニングが少女がネズミと母親に薬を盛る、
その観察記録のスマホ映像から始まり、
ラストは祖父の自死の場面を目の前にしながら、
それをスマホで記録するしかない少女の姿から、
そのスマホの画面で幕を閉じます。
これは構造としては、
楳図かずおの「おろち」や「猫目小僧」に近い世界で、
人間や怪物が入り交じる悪夢のような世界を、
冷徹で人間でも化け物でもない、
その狭間の存在が、
静かに見守るという物語です。
見守る傍観者というのは要するに読者や観客のことでもある訳ですが、
そこに1つの視点を介在させることによって、
物語の意図をより明確化すると共に、
その傍観者もまっさらな存在ではないことを示すことで、
読者や観客にもある種の覚悟を強いているのです。
今回の作品においては、
ハネケ監督が描きたい世界、
自分の愛情と共に世界を道連れに破滅に向かう意思を、
母親を殺しそれをスマホで記録するしかない少女に、
記録させることによって、
このディスコミュニケーションの時代において、
世代を超えて何かが引き継がれる様を、
描いているのだと思います。
ハネケ監督はそう思ってみると、
いつも同じテーマを繰り返していると言うことも出来て、
意味不明に思えた「隠された記憶」も、
要するに今回の少女と同じように、
ビデオ映像と子供の世代が、
父親の罪を暴くという物語で、
その単純な告発とも言い切れない微妙なもの、
世代を引き継がれるある種の怨念のようなものが、
その基調音として流れているように思うのです。
映像は美しいですし、
現代のヴィスコンティというの感じの、
デカダンスな雰囲気もまた良いのです。
人間関係などは複雑であまり説明も丁寧ではないので、
一応の予備知識は持った上で、
鑑賞されることを個人的にはお薦めします。
一般向きとは言えない映画ですが、
僕個人としてはとても刺激的で、
他人事ではないという思いで観た映画でした。
思えば今の日本人も、
日本という国の没落を目の前にしながら、
ディスコミュニケーションと世代の断絶のただ中で、
何を世代を超えて伝えるべきなのか、
当惑しあがき苦しんでいるようにも思えます。
あなたは何を自分の「罪」として子供に伝え、
何を理解して欲しいと思いますか?
ハネケ監督はおそらく、
理解を求めることは既に過ちで、
もう人間であることを止めた存在である、
若い世代という、
ある種の記録装置に告解せよと言っているのです。
ハネケ監督は矢張りただ者ではありません。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
一筋縄ではいかない、
如何にもヨーロッパ的で、
ブラックでひねくれていて残酷で、
それでいて家族や人間というものに対する、
奇妙なほど純粋な視点と愛情にも満ちた、
オーストリアのミヒャエル・ハネケ監督の新作が、
今ロードショー公開されています。
以前「隠された記憶」という作品を観て、
「衝撃的なラスト」という宣伝だったのに、
最後まで観ても全く訳が分からず、
モヤモヤする思いだけを抱えて観終わったことがあったので、
今回はなるべく予備知識も得た上で、
真剣に細部を見逃さずに鑑賞しようと劇場に足を運びました。
ただ今回の作品は意外に分かりやすくて、
ハネケ監督お馴染みの家族崩壊劇なのですが、
最初から最後まで筋立ては明確で晦渋さはなく、
ラストもなかなか衝撃的で、
オープニングと見事に呼応している辺りもさすがだと思います。
勿論物語は省略が多く、
台詞を廃したサイレント的な長回しを含めて、
最初から最後まで独自のゆったりとしたテンポで、
全体が支配されているので、
それほど観やすいという映画ではないのですが、
それでも「隠された記憶」のように、
観客が投げ出されたような状態になることはなく、
ハネケ監督の独特の世界に、
ゆっくりと身を委ね、
その体験を共にすることが出来る作品に仕上がっていました。
以下少しネタバレがあります。
先入観なく作品を観たい方は、
鑑賞後にお読み下さい。
観る値打ちは間違いなくある作品です。
今回の映画は前作「愛、アムール」とほぼ同じ設定の親子を、
前作と同じ2人の役者さんが演じ、
そこに娘より1つ世代が下の少女を登場させることにより、
コミュニケーション障害の塊のようなフランスのある裕福な家族が、
虚構の沼の中に静かに沈んで行く様を描きます。
これはネタ割れをして良いと思うのですが、
今回の「観客の視点」としての少女は、
2005年の日本の、
女子高生がタリウムで母親の毒殺を企て、
それを冷徹に記録に残してネットで公開していた、
という衝撃的な事件を元にしていて、
その「死を観察し記録する少女」が、
フランスの没落した名家に入り込み、
その崩壊をつぶさに記録してゆく、
という物語になっています。
SNSやスマホの画面が、
頻繁にその観察の器具として登場するのがミソで、
宣伝のポスターも、
よく見るとスマホの画面になっていますし、
映画もオープニングが少女がネズミと母親に薬を盛る、
その観察記録のスマホ映像から始まり、
ラストは祖父の自死の場面を目の前にしながら、
それをスマホで記録するしかない少女の姿から、
そのスマホの画面で幕を閉じます。
これは構造としては、
楳図かずおの「おろち」や「猫目小僧」に近い世界で、
人間や怪物が入り交じる悪夢のような世界を、
冷徹で人間でも化け物でもない、
その狭間の存在が、
静かに見守るという物語です。
見守る傍観者というのは要するに読者や観客のことでもある訳ですが、
そこに1つの視点を介在させることによって、
物語の意図をより明確化すると共に、
その傍観者もまっさらな存在ではないことを示すことで、
読者や観客にもある種の覚悟を強いているのです。
今回の作品においては、
ハネケ監督が描きたい世界、
自分の愛情と共に世界を道連れに破滅に向かう意思を、
母親を殺しそれをスマホで記録するしかない少女に、
記録させることによって、
このディスコミュニケーションの時代において、
世代を超えて何かが引き継がれる様を、
描いているのだと思います。
ハネケ監督はそう思ってみると、
いつも同じテーマを繰り返していると言うことも出来て、
意味不明に思えた「隠された記憶」も、
要するに今回の少女と同じように、
ビデオ映像と子供の世代が、
父親の罪を暴くという物語で、
その単純な告発とも言い切れない微妙なもの、
世代を引き継がれるある種の怨念のようなものが、
その基調音として流れているように思うのです。
映像は美しいですし、
現代のヴィスコンティというの感じの、
デカダンスな雰囲気もまた良いのです。
人間関係などは複雑であまり説明も丁寧ではないので、
一応の予備知識は持った上で、
鑑賞されることを個人的にはお薦めします。
一般向きとは言えない映画ですが、
僕個人としてはとても刺激的で、
他人事ではないという思いで観た映画でした。
思えば今の日本人も、
日本という国の没落を目の前にしながら、
ディスコミュニケーションと世代の断絶のただ中で、
何を世代を超えて伝えるべきなのか、
当惑しあがき苦しんでいるようにも思えます。
あなたは何を自分の「罪」として子供に伝え、
何を理解して欲しいと思いますか?
ハネケ監督はおそらく、
理解を求めることは既に過ちで、
もう人間であることを止めた存在である、
若い世代という、
ある種の記録装置に告解せよと言っているのです。
ハネケ監督は矢張りただ者ではありません。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。