ベッリーニ「夢遊病の女」(新国立劇場2024/25レパートリー) [オペラ]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ベッリーニのベルカントオペラの傑作「夢遊病の女」が、
新国立劇場のレパートリーとして先日上演されました。
「夢遊病の女」は名のみ高く、
あまり日本では上演はされないオペラの1つで、
装飾歌唱コロラトゥーラの、
代表的な演目の1つです。
僕はデセイ様が2004年に初来日のリサイタルを開いた時、
その最後のソプラノのアリアの前半のカバティーナを後半のパートで、
後半のカバレッタをアンコールで歌ったのを聴いたのが衝撃的で、
特にアンコールのカバレッタの超絶技巧と超高音は、
この素晴らしいリサイタルの中でも、
白眉と言って良いものでした。
すんばらしかったのです。
19世紀初頭の作品で、
物語の内容自体は、
正直かなり古色蒼然とした感じです。
主人公のアミーナは夢遊病のために、
婚約者のエルヴィーノから不貞を疑われて、
婚約指輪を投げ捨てられてしまうのですが、
ラストに夢遊病でのアリアで、
皆に真相が分かり、
その後2人は祝福されて、
歓喜の歌でオペラは終わります。
この作品はともかく、
ラストの夢遊病でのアリアから、
テノールとソプラノの掛け合い、
そして急転直下のハッピーエンドの、
ソプラノの超絶技巧と合唱との融合、
という部分が抜群にいいんですね。
このクライマックスのための、
それまでは壮大な前振り、と言っても良いくらい。
それなら、アリアだけ歌えばいいじゃないか、
と思うところですが、
合唱やテノールの歌声を楽器にしてしまうと、
途端にその魅力はかなり失われてしまう感じになるのです。
今回は歌手陣はまあまあ頑張っていたのですが、
演出はかなり原作を改変していて、
アミーナは最後小屋の高台に現れ、
歓喜のアリアは歌うものの、
恋人や村人と交わることは最後までなく、
どうやらラストは高台から身を投げて死んだ、
ということを示唆して終わります。
うーん。
勿論意図は分かるのです。
原作はあまりに恋人が身勝手で自己中心的で、
その誤解に主人公は振り回され、
最後に急に「悪かった」と言われても、
それでまた婚約してハッピーエンド、
というのはあまりに男の身勝手な理屈です。
それは分かるのですが、
この作品はラストの、
絶望から急転直下のハッピーエンド、
というのが一番の聴きどころなので、
そこを演出で捻ってしまうと、
作品の性質が変わってしまうんですよね。
こんなことをするくらいなら、
この作品は上演しない方がいい、
上演するにしても演奏会形式の方がいい、
というように思ってしまいました。
歌手陣は主人公のアミーナに、
イタリアの新進気鋭のソプラノ、クラウディア・ムスキオ、
エルヴィーラに往年の名テノール、アントニオ・シラグーザという布陣で、
ムスキオは非常に丁寧な歌唱で好感が持てましたが、
コロラトゥーラは抜群、とまではいかない感じでした。
あのラストのアリアは、
たとえば絶頂期のデセイ様が歌えば、
あんなものではなく、
これを聴ければその場で死んでも構わないと、
本気でそう思えるほどの絶品なのです。
対するシラグーザは、
いつも通りの手を抜かない熱演であり熱唱でしたが、
正直矢張りかつての絶頂期の声の輝きはありませんでした。
そんな訳で、
この作品を生で聴けて良かった、
という感慨はありながら、
演出には不満があり、
また歌手陣にも曲が素晴らしいだけに、
どうしてもより高いものを期待してしまいました。
オペラはなかなか難しいですね。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ベッリーニのベルカントオペラの傑作「夢遊病の女」が、
新国立劇場のレパートリーとして先日上演されました。
「夢遊病の女」は名のみ高く、
あまり日本では上演はされないオペラの1つで、
装飾歌唱コロラトゥーラの、
代表的な演目の1つです。
僕はデセイ様が2004年に初来日のリサイタルを開いた時、
その最後のソプラノのアリアの前半のカバティーナを後半のパートで、
後半のカバレッタをアンコールで歌ったのを聴いたのが衝撃的で、
特にアンコールのカバレッタの超絶技巧と超高音は、
この素晴らしいリサイタルの中でも、
白眉と言って良いものでした。
すんばらしかったのです。
19世紀初頭の作品で、
物語の内容自体は、
正直かなり古色蒼然とした感じです。
主人公のアミーナは夢遊病のために、
婚約者のエルヴィーノから不貞を疑われて、
婚約指輪を投げ捨てられてしまうのですが、
ラストに夢遊病でのアリアで、
皆に真相が分かり、
その後2人は祝福されて、
歓喜の歌でオペラは終わります。
この作品はともかく、
ラストの夢遊病でのアリアから、
テノールとソプラノの掛け合い、
そして急転直下のハッピーエンドの、
ソプラノの超絶技巧と合唱との融合、
という部分が抜群にいいんですね。
このクライマックスのための、
それまでは壮大な前振り、と言っても良いくらい。
それなら、アリアだけ歌えばいいじゃないか、
と思うところですが、
合唱やテノールの歌声を楽器にしてしまうと、
途端にその魅力はかなり失われてしまう感じになるのです。
今回は歌手陣はまあまあ頑張っていたのですが、
演出はかなり原作を改変していて、
アミーナは最後小屋の高台に現れ、
歓喜のアリアは歌うものの、
恋人や村人と交わることは最後までなく、
どうやらラストは高台から身を投げて死んだ、
ということを示唆して終わります。
うーん。
勿論意図は分かるのです。
原作はあまりに恋人が身勝手で自己中心的で、
その誤解に主人公は振り回され、
最後に急に「悪かった」と言われても、
それでまた婚約してハッピーエンド、
というのはあまりに男の身勝手な理屈です。
それは分かるのですが、
この作品はラストの、
絶望から急転直下のハッピーエンド、
というのが一番の聴きどころなので、
そこを演出で捻ってしまうと、
作品の性質が変わってしまうんですよね。
こんなことをするくらいなら、
この作品は上演しない方がいい、
上演するにしても演奏会形式の方がいい、
というように思ってしまいました。
歌手陣は主人公のアミーナに、
イタリアの新進気鋭のソプラノ、クラウディア・ムスキオ、
エルヴィーラに往年の名テノール、アントニオ・シラグーザという布陣で、
ムスキオは非常に丁寧な歌唱で好感が持てましたが、
コロラトゥーラは抜群、とまではいかない感じでした。
あのラストのアリアは、
たとえば絶頂期のデセイ様が歌えば、
あんなものではなく、
これを聴ければその場で死んでも構わないと、
本気でそう思えるほどの絶品なのです。
対するシラグーザは、
いつも通りの手を抜かない熱演であり熱唱でしたが、
正直矢張りかつての絶頂期の声の輝きはありませんでした。
そんな訳で、
この作品を生で聴けて良かった、
という感慨はありながら、
演出には不満があり、
また歌手陣にも曲が素晴らしいだけに、
どうしてもより高いものを期待してしまいました。
オペラはなかなか難しいですね。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2024-11-03 07:19
nice!(4)
コメント(0)
コメント 0