マクドナー「ピローマン」(2024年新国立劇場 小川絵梨子演出版) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は祝日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
マクドナーが2003年に発表した傑作「ピローマン」が、
新国立劇場のレパートリーとして、
芸術監督の小川絵梨子さんの台本・演出で、
今上演されています。
この作品は長塚圭史さんがパルコ劇場で、
2004年にいち早く上演しています。
長塚さんはその前に、
「ウィートーマス」という怪作を上演していて、
その印象が強烈だったので、
今回もそんな感じかしらと思って観に行くと、
後藤ひろひとさんや、中島らもさんがパルコ劇場でやっていた、
童話タッチのホラー芝居みたいなタッチのもので、
延々と童話の語りの芝居が続くので、
「なんじゃこりゃ」という感じで、
ほぼほぼ後半は睡魔と闘った、
という恥ずかしい鑑賞でした。
ただ、その後マクドナーの作品が次々と上演され、
それがまた抜群に面白いので、
これは絶対「ピローマン」も面白かった筈だ、
僕の理解が足りなかったのだと反省。
再演の機会を窺っていたのですが、
2022年に演劇集団円の上演があって、
そこで初めてこの作品の真価を知った、
というような流れがあります。
ただ、その時の上演もややモヤモヤする部分はあり、
寺十吾さんの演出は僕は大好きなのですが、
「ピローマン」の演出としては、
もう一工夫あるべきではないか、
この作品はもっと衝撃的で、
もっと感動的なものなのではないか、
という感じが抜けませんでした。
それで今回、翻訳もされ、
マクドナー演劇を知り尽くしている小川さんの演出で、
この作品が再演されることを知って、
「これは絶対行かなければ」と思い、
劇場に駆け付けた、という感じで足を運びました。
戯曲も買いました。
鑑賞後の感想としては、
これまで僕が観た上演の中では、
今回が抜群だったと思います。
ただ、これが完成形かと言うと、
そうではないという気持ちもあります。
この作品はある全体主義的国家が舞台となっていて、
時も処もあまり明確ではない設定になっています。
明確でないのはそればかりではなくて、
メインのキャストは4人の男性ですが、
その年齢も明らかではありません。
カトゥリアンとミカエルという兄弟がいて、
幼少期に両親による悪夢的な実験を受けた結果、
兄のミカエルは知的障害が残り、
弟のカトゥリアンは、
動物処理場の仕事をしながら、
その多くで子供が酷い目に遭う、
残酷な童話を書いています。
その残酷な童話そっくりに、
2人の子供が連続して殺されるという事件が起き、
更に少女が行方不明となったため、
警察は童話と殺人との関連を疑い、
作者のカトゥリアンを捕らえて尋問します。
残りの2人のメインキャストは、
トゥポルスキとアリエルという刑事で、
この2人の刑事が、
拘留されたカトゥリアンを尋問するところから、
この舞台は始まります。
こうした設定から、
サイコスリラーみたいなものを期待して、
多くの観客は観始めるのですが、
最初から本筋にはなかなか入らない、
かなりまわりくどい対話が続き、
事件の元になったらしい童話を、
ほぼ全文語りで説明する、という描写が続くので、
何だか予想とは違うぞ、
という空気が漂います。
その後で、今度は兄弟の悲惨な生い立ちが語られるのですが、
それもカトゥリアンが書いた、
事実を改変した童話という形で語られ、
後半では今度は刑事の1人が、
自分の小説を1人語りするパートまであります。
事件の真相は明らかにはなるものの、
別に捻りがあるという訳ではなく、
それは無雑作に途中で提示されるだけです。
お分かりのように、
これはサイコスリラーではなくて、
悲惨で残酷な世界の中で、
「物語」はどういう価値を持つのか、
というテーマの作品なのです。
猟奇的な事件が起こると、
そのヒントとなったと思われる小説やドラマが、
やり玉に挙げられることがありますよね。
残酷な世界には、残酷な物語も満ちている訳ですが、
その物語は現実世界に、
どのような影響を与え、
それがあることは、
どのような意味を持つのでしょうか?
暴力の連鎖というものが言われることがあります。
親の暴力が子供に影響を与え、
その子供の暴力に繋がるというような概念ですが、
悲惨な出来事を物語化することで、
物語の影響も連鎖するのでしょうか?
それが現実を改変する可能性はあるのでしょうか?
その創作するものにとって根源的な問いかけを作品化したのが、
この「ピローマン」なのです。
虐待され閉じ込められた兄弟とか、
残酷な物語が現実化する恐怖とか、
この作品は松尾スズキさんの劇作に、
非常に近い部分があるんですね。
ほぼ同じじゃないか、と思えるような部分もあります。
ただ、僕は松尾さんの作品も大好きなのですが、
今松尾さんの過去作を上演しても、
この作品のような感銘を与えることは難しいと思います。
それは松尾さんの作品が、
それが書かれた時代にかなり強く結びついていて、
今ではどうしても古く見えてしまうんですね。
許容される表現の範囲が、
発表当時と今とではかなり違っているため、
そのままの上演は難しかったり、
観客の拒否反応を招く、
という点もハードルとなっています。
その点この「ピローマン」は、
敢えて設定に多くの余白を作ることで、
空間や時間を超えた、
極めて普遍的な作品に昇華されている点が、
素晴らしいのですね。
ただ、このように傑作であることは間違いのない「ピローマン」ですが、
実際に日本で翻訳劇として上演して、
その真価を観客に伝えることは、
それほど簡単な作業ではありません。
この作品の主題は「物語」なので、
役者が「物語」を語り、
それを可視化することが、
ストーリーの中心にあるんですね。
最初は尋問でカトゥリアンに語られるだけの物語が、
その後のパートでは演劇的に可視化され、
それが現実と対話することで、
現実も動き始めます。
そして、物語が1つの命を救うという、
感動的なパートがあり、
ラストは非常に残酷なものでありながら、
「死者の語り」という様式を持つことで、
物語が現実を超えて生きる可能性を示唆して終わるのです。
この物語を観客に理解してもらうには、
残酷な童話の語りを、
しっかりと集中して聞いてもらわないといけません。
ただ、そのために物語を可視化するような演出をすると、
その後のパートで物語が可視化されることの、
印象を弱めてしまうので、
そうしたことは出来ないのです。
つまり、敢えて前半を退屈にする必要がある訳です。
日本初演の長塚圭史さんの演出では、
最初から残酷な童話の中に入り込んだような、
グロテスクでポップな世界が展開されましたが、
特に前半台詞の雰囲気とのギャップが違和感を感じさせました。
「如何にも凄いことが起こりそうなのに、左程のことが起こらない」
という印象がどうしても残ってしまったのです。
2022年の寺十吾さんの演出では、
全てが闇に包まれたようなダークな世界が展開され、
特に尋問の場面は良かったと思うのですが、
後半はもっと残酷演劇的なポップさや色彩感が、
欲しいように思いました。
今回の小川絵梨子さんの演出は、
翻訳もしてこの作品を熟知しているだけあって、
シンプルな舞台装置の中央ステージに、
語りをしっかりと伝えられる技量を持つ、
4人のキャストを配し、
この作品の台詞劇としての豊饒さを、
シンプルに伝えることに力点を置いた、
高レベルのものでした。
ただ、それでも不満もあります。
まずキャストが地味ですよね。
勿論実力重視で悪い訳ではないのです。
でもこの作品は、オールスターキャストでも、
悪くないと思うんですよね。
メインの4人は物凄い個性のぶつかり合いで、
キャラ設定も非常に明確でしょ。
このキャラならこの人がベスト、
というような人に、
演じてもらいたい気持ちもあるのです。
それから後半の悪夢的な光景は、
もっと極彩色の感じが欲しいんですね。
今回のものは、まあ新国立劇場という枠もあるので、
あまりグロテスクな描写は、
出しにくかったのだと思いますが、
本来はもっと凄味のあるものにして欲しかった、
という部分はあります。
いずれにしても、
松尾スズキさんのこれまでの劇作の全てを、
煮詰めて蒸留して1つに結晶させたような傑作で、
今後もまた新しいアプローチでの上演に、
是非期待をしたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は祝日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
マクドナーが2003年に発表した傑作「ピローマン」が、
新国立劇場のレパートリーとして、
芸術監督の小川絵梨子さんの台本・演出で、
今上演されています。
この作品は長塚圭史さんがパルコ劇場で、
2004年にいち早く上演しています。
長塚さんはその前に、
「ウィートーマス」という怪作を上演していて、
その印象が強烈だったので、
今回もそんな感じかしらと思って観に行くと、
後藤ひろひとさんや、中島らもさんがパルコ劇場でやっていた、
童話タッチのホラー芝居みたいなタッチのもので、
延々と童話の語りの芝居が続くので、
「なんじゃこりゃ」という感じで、
ほぼほぼ後半は睡魔と闘った、
という恥ずかしい鑑賞でした。
ただ、その後マクドナーの作品が次々と上演され、
それがまた抜群に面白いので、
これは絶対「ピローマン」も面白かった筈だ、
僕の理解が足りなかったのだと反省。
再演の機会を窺っていたのですが、
2022年に演劇集団円の上演があって、
そこで初めてこの作品の真価を知った、
というような流れがあります。
ただ、その時の上演もややモヤモヤする部分はあり、
寺十吾さんの演出は僕は大好きなのですが、
「ピローマン」の演出としては、
もう一工夫あるべきではないか、
この作品はもっと衝撃的で、
もっと感動的なものなのではないか、
という感じが抜けませんでした。
それで今回、翻訳もされ、
マクドナー演劇を知り尽くしている小川さんの演出で、
この作品が再演されることを知って、
「これは絶対行かなければ」と思い、
劇場に駆け付けた、という感じで足を運びました。
戯曲も買いました。
鑑賞後の感想としては、
これまで僕が観た上演の中では、
今回が抜群だったと思います。
ただ、これが完成形かと言うと、
そうではないという気持ちもあります。
この作品はある全体主義的国家が舞台となっていて、
時も処もあまり明確ではない設定になっています。
明確でないのはそればかりではなくて、
メインのキャストは4人の男性ですが、
その年齢も明らかではありません。
カトゥリアンとミカエルという兄弟がいて、
幼少期に両親による悪夢的な実験を受けた結果、
兄のミカエルは知的障害が残り、
弟のカトゥリアンは、
動物処理場の仕事をしながら、
その多くで子供が酷い目に遭う、
残酷な童話を書いています。
その残酷な童話そっくりに、
2人の子供が連続して殺されるという事件が起き、
更に少女が行方不明となったため、
警察は童話と殺人との関連を疑い、
作者のカトゥリアンを捕らえて尋問します。
残りの2人のメインキャストは、
トゥポルスキとアリエルという刑事で、
この2人の刑事が、
拘留されたカトゥリアンを尋問するところから、
この舞台は始まります。
こうした設定から、
サイコスリラーみたいなものを期待して、
多くの観客は観始めるのですが、
最初から本筋にはなかなか入らない、
かなりまわりくどい対話が続き、
事件の元になったらしい童話を、
ほぼ全文語りで説明する、という描写が続くので、
何だか予想とは違うぞ、
という空気が漂います。
その後で、今度は兄弟の悲惨な生い立ちが語られるのですが、
それもカトゥリアンが書いた、
事実を改変した童話という形で語られ、
後半では今度は刑事の1人が、
自分の小説を1人語りするパートまであります。
事件の真相は明らかにはなるものの、
別に捻りがあるという訳ではなく、
それは無雑作に途中で提示されるだけです。
お分かりのように、
これはサイコスリラーではなくて、
悲惨で残酷な世界の中で、
「物語」はどういう価値を持つのか、
というテーマの作品なのです。
猟奇的な事件が起こると、
そのヒントとなったと思われる小説やドラマが、
やり玉に挙げられることがありますよね。
残酷な世界には、残酷な物語も満ちている訳ですが、
その物語は現実世界に、
どのような影響を与え、
それがあることは、
どのような意味を持つのでしょうか?
暴力の連鎖というものが言われることがあります。
親の暴力が子供に影響を与え、
その子供の暴力に繋がるというような概念ですが、
悲惨な出来事を物語化することで、
物語の影響も連鎖するのでしょうか?
それが現実を改変する可能性はあるのでしょうか?
その創作するものにとって根源的な問いかけを作品化したのが、
この「ピローマン」なのです。
虐待され閉じ込められた兄弟とか、
残酷な物語が現実化する恐怖とか、
この作品は松尾スズキさんの劇作に、
非常に近い部分があるんですね。
ほぼ同じじゃないか、と思えるような部分もあります。
ただ、僕は松尾さんの作品も大好きなのですが、
今松尾さんの過去作を上演しても、
この作品のような感銘を与えることは難しいと思います。
それは松尾さんの作品が、
それが書かれた時代にかなり強く結びついていて、
今ではどうしても古く見えてしまうんですね。
許容される表現の範囲が、
発表当時と今とではかなり違っているため、
そのままの上演は難しかったり、
観客の拒否反応を招く、
という点もハードルとなっています。
その点この「ピローマン」は、
敢えて設定に多くの余白を作ることで、
空間や時間を超えた、
極めて普遍的な作品に昇華されている点が、
素晴らしいのですね。
ただ、このように傑作であることは間違いのない「ピローマン」ですが、
実際に日本で翻訳劇として上演して、
その真価を観客に伝えることは、
それほど簡単な作業ではありません。
この作品の主題は「物語」なので、
役者が「物語」を語り、
それを可視化することが、
ストーリーの中心にあるんですね。
最初は尋問でカトゥリアンに語られるだけの物語が、
その後のパートでは演劇的に可視化され、
それが現実と対話することで、
現実も動き始めます。
そして、物語が1つの命を救うという、
感動的なパートがあり、
ラストは非常に残酷なものでありながら、
「死者の語り」という様式を持つことで、
物語が現実を超えて生きる可能性を示唆して終わるのです。
この物語を観客に理解してもらうには、
残酷な童話の語りを、
しっかりと集中して聞いてもらわないといけません。
ただ、そのために物語を可視化するような演出をすると、
その後のパートで物語が可視化されることの、
印象を弱めてしまうので、
そうしたことは出来ないのです。
つまり、敢えて前半を退屈にする必要がある訳です。
日本初演の長塚圭史さんの演出では、
最初から残酷な童話の中に入り込んだような、
グロテスクでポップな世界が展開されましたが、
特に前半台詞の雰囲気とのギャップが違和感を感じさせました。
「如何にも凄いことが起こりそうなのに、左程のことが起こらない」
という印象がどうしても残ってしまったのです。
2022年の寺十吾さんの演出では、
全てが闇に包まれたようなダークな世界が展開され、
特に尋問の場面は良かったと思うのですが、
後半はもっと残酷演劇的なポップさや色彩感が、
欲しいように思いました。
今回の小川絵梨子さんの演出は、
翻訳もしてこの作品を熟知しているだけあって、
シンプルな舞台装置の中央ステージに、
語りをしっかりと伝えられる技量を持つ、
4人のキャストを配し、
この作品の台詞劇としての豊饒さを、
シンプルに伝えることに力点を置いた、
高レベルのものでした。
ただ、それでも不満もあります。
まずキャストが地味ですよね。
勿論実力重視で悪い訳ではないのです。
でもこの作品は、オールスターキャストでも、
悪くないと思うんですよね。
メインの4人は物凄い個性のぶつかり合いで、
キャラ設定も非常に明確でしょ。
このキャラならこの人がベスト、
というような人に、
演じてもらいたい気持ちもあるのです。
それから後半の悪夢的な光景は、
もっと極彩色の感じが欲しいんですね。
今回のものは、まあ新国立劇場という枠もあるので、
あまりグロテスクな描写は、
出しにくかったのだと思いますが、
本来はもっと凄味のあるものにして欲しかった、
という部分はあります。
いずれにしても、
松尾スズキさんのこれまでの劇作の全てを、
煮詰めて蒸留して1つに結晶させたような傑作で、
今後もまた新しいアプローチでの上演に、
是非期待をしたいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2024-10-14 05:51
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