「ミッシング」 [映画]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
現代を間違いなく代表する映画監督の1人である、
吉田恵輔監督の新作が、
オリジナル台本で石原さとみさんの主演で完成し、
今ロードショー公開されています。
吉田監督は「空白」が、
現代社会を鷲掴みにしたような大傑作で、
非常な感銘を受けました。
それを更に先鋭化させたのが、
次作の「神は見返りを求める」でしたが、
フィクショナルな展開が、
やや暴走気味で収拾がつかなくなった感がありました。
今回の映画はその方向性とは全く別の形、
過激な展開の連鎖や、
キャラの誇張を避け、
リアルでありそうな展開のみを、
物語的にはあまり面白みのない設定と性格のキャラ達に演じさせ、
殆どノンフィクションを指向しながら、
そこにフィクションの意義を見出そうとした、
吉田監督の作家性が、
非常に強く打ち出された力作でした。
これは個人的には大傑作だと思うのですが、
その真価はおそらく今よりも、
5年から10年くらいが経過して、
今の時代の狂気の熱が少し冷めた時に、
明らかになるような気がします。
マスコミの描き方にしても、
SNSの描き方にしても、
今の時代に多くの人が、
何となく正しいと感じていることとは、
実は真逆に近いことを、
作り手は主張しているのですね。
ただ、それをそのまま主張したら、
反発されることが分かっているので、
表面的にはそうでもない風を装いつつ、
その奥に真実を忍ばせるような描き方をしています。
そのため、この作品を観た人は、
何となく居心地の悪さを感じるのです。
それは実は作り手から観客に向けられた、
刃の切っ先なのですが、
それが理解出来ないと、
「もっと別の展開を予想していたので、期待外れだった」とか、
「何が言いたいのか分からず、心に響かなかった」
というような感想になるのではないかと思います。
鑑賞後にすぐ連想したのは、
マクドナーの「スリー・ビルボード」で、
どちらも「母が最愛の娘を失う」という、
1つの事件を主軸に据えながら、
その事件が解決するのではなく、
娘を喪失した母の心情のエネルギーを梃子にして、
その周辺の世界を描いています。
つまり、これは一種の物理実験のようなもので、
得体の知れない世界に、
母の感情をぶつけることにより、
その揺らぎから世界の本質を観測しよう、
という試みなのです。
そして、もう1つのポイントは、
いずれの作品においても、
母の心情はその喪失後にしか基本的には描かれず、
それ以前の母娘がどのような関係であったのかは、
完全なブラックボックスになっている、という点にあります。
「空白」においては、
父と死んだ娘との関係性は、
最後に至ってある程度明らかになり、
そこに1つのカタルシスが生まれるのですが、
この作品では敢えてそれをせず、
事件の真相のみならず、
事件前の親子の関係性すら、
未解決のままにしているのです。
これはどういうことかと言うと、
私達がたとえば女の子が失踪した、
というような事件を報道で見て、
そこから得られる情報と基本的には同じものだけを、
この映画も提示している、
ということなのですね。
それがワイドショーやSNSなどで拡散されると、
私達は何の関係もないその家族について、
実は親子は仲が悪かったのではないかなど、
根拠もない憶測から勝手に自分の物語を作り、
それを共有することによって「娯楽化」するのです。
この映画が本質的に描いているのは、
そうした現実が虚構化され、
物語化されて消費される過程なのです。
しかし、そんなものが果たして面白いでしょうか?
現実の報道は実在の人物を傷つけるけれど、
虚構の報道の利点は誰も傷つけることがない点にあります。
その虚構がそれ自体として面白ければ、
人は現実の詰まらない事件を追い求めて、
そこに娯楽を見出すような必要はなくなります。
今回の映画がやりたかったことは、
自分が創作した物語が、
現実の娯楽化を超えられるのか、
という挑戦であって、
そこにこの映画の本質があるという気がします。
その試みが成功したのか、という点については、
おそらく今はまだ決着が付かないのです。
いずれにしても吉田恵輔監督にして初めてなしえた、
あまり類例のない意欲的な傑作で、
この混乱と狂気の時代に、
確実に観るべき1本だと思います。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
現代を間違いなく代表する映画監督の1人である、
吉田恵輔監督の新作が、
オリジナル台本で石原さとみさんの主演で完成し、
今ロードショー公開されています。
吉田監督は「空白」が、
現代社会を鷲掴みにしたような大傑作で、
非常な感銘を受けました。
それを更に先鋭化させたのが、
次作の「神は見返りを求める」でしたが、
フィクショナルな展開が、
やや暴走気味で収拾がつかなくなった感がありました。
今回の映画はその方向性とは全く別の形、
過激な展開の連鎖や、
キャラの誇張を避け、
リアルでありそうな展開のみを、
物語的にはあまり面白みのない設定と性格のキャラ達に演じさせ、
殆どノンフィクションを指向しながら、
そこにフィクションの意義を見出そうとした、
吉田監督の作家性が、
非常に強く打ち出された力作でした。
これは個人的には大傑作だと思うのですが、
その真価はおそらく今よりも、
5年から10年くらいが経過して、
今の時代の狂気の熱が少し冷めた時に、
明らかになるような気がします。
マスコミの描き方にしても、
SNSの描き方にしても、
今の時代に多くの人が、
何となく正しいと感じていることとは、
実は真逆に近いことを、
作り手は主張しているのですね。
ただ、それをそのまま主張したら、
反発されることが分かっているので、
表面的にはそうでもない風を装いつつ、
その奥に真実を忍ばせるような描き方をしています。
そのため、この作品を観た人は、
何となく居心地の悪さを感じるのです。
それは実は作り手から観客に向けられた、
刃の切っ先なのですが、
それが理解出来ないと、
「もっと別の展開を予想していたので、期待外れだった」とか、
「何が言いたいのか分からず、心に響かなかった」
というような感想になるのではないかと思います。
鑑賞後にすぐ連想したのは、
マクドナーの「スリー・ビルボード」で、
どちらも「母が最愛の娘を失う」という、
1つの事件を主軸に据えながら、
その事件が解決するのではなく、
娘を喪失した母の心情のエネルギーを梃子にして、
その周辺の世界を描いています。
つまり、これは一種の物理実験のようなもので、
得体の知れない世界に、
母の感情をぶつけることにより、
その揺らぎから世界の本質を観測しよう、
という試みなのです。
そして、もう1つのポイントは、
いずれの作品においても、
母の心情はその喪失後にしか基本的には描かれず、
それ以前の母娘がどのような関係であったのかは、
完全なブラックボックスになっている、という点にあります。
「空白」においては、
父と死んだ娘との関係性は、
最後に至ってある程度明らかになり、
そこに1つのカタルシスが生まれるのですが、
この作品では敢えてそれをせず、
事件の真相のみならず、
事件前の親子の関係性すら、
未解決のままにしているのです。
これはどういうことかと言うと、
私達がたとえば女の子が失踪した、
というような事件を報道で見て、
そこから得られる情報と基本的には同じものだけを、
この映画も提示している、
ということなのですね。
それがワイドショーやSNSなどで拡散されると、
私達は何の関係もないその家族について、
実は親子は仲が悪かったのではないかなど、
根拠もない憶測から勝手に自分の物語を作り、
それを共有することによって「娯楽化」するのです。
この映画が本質的に描いているのは、
そうした現実が虚構化され、
物語化されて消費される過程なのです。
しかし、そんなものが果たして面白いでしょうか?
現実の報道は実在の人物を傷つけるけれど、
虚構の報道の利点は誰も傷つけることがない点にあります。
その虚構がそれ自体として面白ければ、
人は現実の詰まらない事件を追い求めて、
そこに娯楽を見出すような必要はなくなります。
今回の映画がやりたかったことは、
自分が創作した物語が、
現実の娯楽化を超えられるのか、
という挑戦であって、
そこにこの映画の本質があるという気がします。
その試みが成功したのか、という点については、
おそらく今はまだ決着が付かないのです。
いずれにしても吉田恵輔監督にして初めてなしえた、
あまり類例のない意欲的な傑作で、
この混乱と狂気の時代に、
確実に観るべき1本だと思います。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2024-05-25 07:46
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