松尾スズキ「ドライブイン カリフォルニア」(2022年上演版) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
1996年に初演され、
2004年に再演された松尾スズキさんの旧作が、
装いも新たに今再演されています。
これは初演も最初の再演も観ていますが、
正直当時はそれほど乗れませんでした。
「愛の罰」や「ふくすけ」に代表されるような、
ロマネスク的で百鬼夜行のような残酷見世物的世界、
話は膨らむだけ膨らんでラストにまとまることもなく、
役者は異形な怪物揃いというような、
唯一無二の大暴れは蔭を潜めて、
トム・シェパードなどを彷彿とさせるような、
家庭劇の色彩が強い物語となっています。
この作品や97年の「洞海湾」は特にそうした色彩が強くて、
当時は「こういうものを期待している訳ではないのに」
という感じが抜けなかったのです。
ただ、実際には当時興奮した破天荒な残酷見世物演劇は、
コンプライアンス的な問題もあって、
今では殆ど上演される機会はなく、
旧作が上演されても、
かなりウェルメイドな方向に作品世界は改変されています。
その一方で当時は地味でやや保守的にも感じられた、
ミニマムな家庭劇の世界は、
松尾さんの劇世界の魅力の一端は確実に伝えつつ、
現在でもそのまま鑑賞可能な作品群となっているのです。
松尾さんが当時こうした作品を残していたことは、
矢張り先見の明があったと今では思います。
さて、この作品は14歳で死んだ少年が、
そこに至る顛末を語るという2時間15分ほどの長い1幕劇で、
最後は120年に一度の竹の花が咲いて、
皆が一瞬の幸福に酔い、
死んだ少年も成仏するという、
ハッピーエンドと言っても良いラストに帰着します。
多分松尾戯曲中一二を争う、
まとまりの良いエンディングの作品です。
これまでの上演では、
出鱈目の紙芝居を、
松尾さんが延々と演じるような場面や、
不気味な縫いぐるみの登場など、
要所要所に予定調和を崩すような、
破格的な演出があったのですが、
今回の松尾さんの出演しない上演では、
そうした「遊び」は完全に封印されて、
戯曲そのものの持つ構造の美しさが、
そのまま伝わるような上演となっていました。
岩松了さんの「水の戯れ」などにも、
とても近い世界が展開されているのですが、
これは当時の時代性の一部が反映されているのかも知れません。
ある1人の女性を救うために、
互いに交流を持たない男達が、
孤独で哀切な格闘をする物語です。
ただ、松尾さんは基本的に観客に親切なので、
狂言回しの少年を登場させて、
全てを説明してしまうのですが、
ラストにマリファナ入りのお茶を飲んで竹の花の幻影を見る、
というところなどは、
岩松さんなら絶対に説明しないで、
人物の仕草で匂わすだけですよね。
それを説明するところが、
テネシー・ウィリアムス的資質というか、
松尾さんの意外にアメリカ演劇的なところなのだと思います。
今回の上演で抜群に良かったのは谷原章介さんで、
あの登場の不気味で人間離れした感じは、
目から鱗という印象があり、
これまでの上演で間違いなく一番でした。
これならもっとあの役を膨らませて、
クライマックスで大暴れをしてもらっても良かったですよね。
ラストはやや尻すぼみに感じてしまうのは、
谷原さんが良過ぎたせいだと思います。
今回の上演はそんな訳で、
戯曲の本質的な部分を強く感じさせる、
とてもクオリティの高いものだったのですが、
良いなとは思いながらも、
松尾さんが登場して出鱈目な間合いで劇世界をかき乱すような、
かつての松尾さんのお芝居は、
もう観ることは出来ないのだなと思うと、
少し残念な気持ちにもなるのです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
1996年に初演され、
2004年に再演された松尾スズキさんの旧作が、
装いも新たに今再演されています。
これは初演も最初の再演も観ていますが、
正直当時はそれほど乗れませんでした。
「愛の罰」や「ふくすけ」に代表されるような、
ロマネスク的で百鬼夜行のような残酷見世物的世界、
話は膨らむだけ膨らんでラストにまとまることもなく、
役者は異形な怪物揃いというような、
唯一無二の大暴れは蔭を潜めて、
トム・シェパードなどを彷彿とさせるような、
家庭劇の色彩が強い物語となっています。
この作品や97年の「洞海湾」は特にそうした色彩が強くて、
当時は「こういうものを期待している訳ではないのに」
という感じが抜けなかったのです。
ただ、実際には当時興奮した破天荒な残酷見世物演劇は、
コンプライアンス的な問題もあって、
今では殆ど上演される機会はなく、
旧作が上演されても、
かなりウェルメイドな方向に作品世界は改変されています。
その一方で当時は地味でやや保守的にも感じられた、
ミニマムな家庭劇の世界は、
松尾さんの劇世界の魅力の一端は確実に伝えつつ、
現在でもそのまま鑑賞可能な作品群となっているのです。
松尾さんが当時こうした作品を残していたことは、
矢張り先見の明があったと今では思います。
さて、この作品は14歳で死んだ少年が、
そこに至る顛末を語るという2時間15分ほどの長い1幕劇で、
最後は120年に一度の竹の花が咲いて、
皆が一瞬の幸福に酔い、
死んだ少年も成仏するという、
ハッピーエンドと言っても良いラストに帰着します。
多分松尾戯曲中一二を争う、
まとまりの良いエンディングの作品です。
これまでの上演では、
出鱈目の紙芝居を、
松尾さんが延々と演じるような場面や、
不気味な縫いぐるみの登場など、
要所要所に予定調和を崩すような、
破格的な演出があったのですが、
今回の松尾さんの出演しない上演では、
そうした「遊び」は完全に封印されて、
戯曲そのものの持つ構造の美しさが、
そのまま伝わるような上演となっていました。
岩松了さんの「水の戯れ」などにも、
とても近い世界が展開されているのですが、
これは当時の時代性の一部が反映されているのかも知れません。
ある1人の女性を救うために、
互いに交流を持たない男達が、
孤独で哀切な格闘をする物語です。
ただ、松尾さんは基本的に観客に親切なので、
狂言回しの少年を登場させて、
全てを説明してしまうのですが、
ラストにマリファナ入りのお茶を飲んで竹の花の幻影を見る、
というところなどは、
岩松さんなら絶対に説明しないで、
人物の仕草で匂わすだけですよね。
それを説明するところが、
テネシー・ウィリアムス的資質というか、
松尾さんの意外にアメリカ演劇的なところなのだと思います。
今回の上演で抜群に良かったのは谷原章介さんで、
あの登場の不気味で人間離れした感じは、
目から鱗という印象があり、
これまでの上演で間違いなく一番でした。
これならもっとあの役を膨らませて、
クライマックスで大暴れをしてもらっても良かったですよね。
ラストはやや尻すぼみに感じてしまうのは、
谷原さんが良過ぎたせいだと思います。
今回の上演はそんな訳で、
戯曲の本質的な部分を強く感じさせる、
とてもクオリティの高いものだったのですが、
良いなとは思いながらも、
松尾さんが登場して出鱈目な間合いで劇世界をかき乱すような、
かつての松尾さんのお芝居は、
もう観ることは出来ないのだなと思うと、
少し残念な気持ちにもなるのです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2022-06-12 08:29
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