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小泉明郎「縛られたプロメテウス」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
プロメテウス.jpg
あいちトリエンナーレ2019で創作され、
「VR演劇史の幕開けを告げる衝撃作」と銘打たれた作品が、
シアターコモンズトウキョウ2020の参加作品として、
東京で初公開されました。

VRで…演劇?
とちょっと興味が沸いたので、
急遽チケットを入手して出掛けてみました。

結果としては発想や構成は、
なかなか面白く刺激的なのですが、
VR自体は最先端という感じのものではなく、
またかなりアートに振っている作品で、
演劇としての面白みは個人的にはあまり感じませんでした。

ただ、これは個々の人の演劇観に左右される事項なので、
「これぞ未来の演劇だ」とお感じになる方もいると思います。

これは60分ほどの作品で、
前半と後半の30分ずつに分かれています。

十数人の観客が暗いホールに入ると、
立ち位置を決めてからVRの機器を装着します。
それで前半はそこで画像を見て、
それから別の部屋に移動します。
そこでは座って今度はモニターを前にヘッドホンで音を聴く、
という趣向になっています。

この構成がなかなか上手いんですね。
30分毎に半分ずつ人を入れるという形で、
人員をスムースに捌く効果もありますし、
この前半と後半が連動する形になっているのですね。
面白くクレヴァ―な発想だと思います。

ただ、結局前半と同じことを、
見方を変えてもう一度繰り返すので、
後半はどうしても退屈にはなるのですね。
僕が観た時にも、
隣で半分寝ている方もいました。

後VRの画像がね、
白黒なんですよね。
出て来るのもモノリスみたいな直方体だったり、
白い線だったりして、
あまりワクワクするような映像ではなかったのが、
期待していただけに少し残念でした。
初期のCGみたいな映像なんですよね。
これじゃ詰まらないと感じました。

もっとカラーで現実にはないようなものが、
リアルに出現して欲しかったですね。
残念!

総じてちょっと理屈先行なんですね。
藝術というか、アートの関連の方は割とそうですね。
それを「演劇」と言われると個人的には抵抗があって、
僕の思う演劇というのは、
もっといかがわしさや疚しさがあって、
それは結局人間の肉体の持つ、
いかがわしさや疚しさのようなものだと思うのですね。
そういう要素は今回の作品には存在していなくて、
だから後半は理屈で理解しろという感じなので、
退屈に感じてしまうのだと思います。

そんな訳で、
演劇を期待したのでやや落胆してしまったのですが、
1つのパフォーマンスとして、
なかなか考えさせる優れた作品であることは確かで、
今後もこうした試みが行われることを期待したいと思いますし、
演劇人がもっとこうした技術を活用して、
演劇と真に融合した作品が生まれることもまた期待をしたいと思います。

演劇の記事が最近少ないのですが、
それなりに観てはいます。
ただ、面白いと思える芝居がなく、
「詰まらなかった」みたいな感想を書くことは、
あまり建設的ではないので書いていません。
特に小劇場は、
批判的に書くと気にされて、
お気を悪くされるような方が多いので、
余計に筆が進みません。
後数本はコロナの影響で中止になりました。

演劇は社会の役に立つから中止にするな、
みたいな意見を言う演劇人の方がいるでしょ。

僕は嫌いなんですよね、そうした言い方。

何の役にも立たないから、
無意味だから、
そこが演劇の魅力ではないかしら。
「意味も価値もないものがあってもいいでしょ。
それを楽しんだっていいでしょ」
というのが、
こうした娯楽の本質ではないかしら。

少なくとも僕はそうしたものが芝居だからこそ、
魅力を感じるのです。

小劇場が中止になったら、
やってる人が破産しちゃうから、
中止にするな、みたいに言うでしょ。
それはそれで深刻な問題だし、
正当な主張であると思いますが、
大きな声で言うようなことじゃないよね。
もっとこっそり申し訳なさそうに言うのが、
それが節度というものじゃないかしら。

そんな風に思います。

密室劇は感染の温床になる、
ということは事実だと思うのです。
だったら、野外劇をやればいいでしょ。
この時期だけ規制緩和して、
みんなで野外劇をすればいいのじゃないのかな。
家にいる観客がネットで繋がって、
そこにフィクションが生まれるような、
そうした演劇もありだよね。
演劇界の重鎮の人も、
そうしたアジテーションをこそするべきではないのかな。
311の計画停電の時も思ったのですが、
こうした危機的な時期だからこそ、
やれるような藝術、やれるような演劇というものが、
あるのじゃないかな。
それを探すことこそが、
演劇人なのじゃないかしら。
演劇にとって劇場は必須のものじゃないでしょ。
寺山修司や唐先生はそうした主張で一世を風靡したんでしょ。
劇場で出来なかったら他でやればいいじゃん。

「コロナがあったって、
ない時と同じように芝居をやらせろ!
1か月以上も練習したんだぞ!」というのは、
ちょっと違うのじゃないかな、
と思ってしまうのです。
芝居は「状況」が作るものだからです。
新型コロナのパンデミックになっていて、
そこでコロナの前に作ったお芝居を、
そのまま演じることが演劇のあるべき姿なのかしら。
それは違うのじゃないかな。
数日で演目を変えて、
状況に合った芝居を創造することも、
それはそれで小劇場ならではの魅力ではないかしら。
小劇場でしか出来ないことではないかしら。

こうしたことが出来る集団に対して、
誰も「演劇など要らない」などとは言わないと思います。

今小劇場に行くでしょ。
入口で「消毒にご協力をお願いします」と言われて、
すし詰めの狭い座席に隣の人と密着して腰を下ろして、
「携帯など音の出るもののスイッチを切って下さい」
というようなお願いと共に、
「コロナ対策で咳エチケットやマスクにご協力下さい」
と言われて、
隣の咳にもビクビクして、
それで正面の舞台で行われる芝居に目を移しますよね。
舞台で行われているこの束の間の虚構と、
この客席のいつもと違う状況や、
その劇場を取り囲む世界の禍禍しさとを比較する時、
果たして劇的なのはどちらでしょうか?

言うまでもないですよね。
劇的なのはこの世界の方で、
舞台ではないのです。

であるとすれば、
予定された芝居を状況と無関係に演じることは、
あるべき姿ではないのではないかしら。
演劇人の皆さんが真に恐れるべきなのは、
予定された上演を中止に追い込まれることではなく、
フィクションの世界より現実の重みが途方もなく大きい、
この不均衡の存在ではないかしら。
そして真に演劇人が考えるべきなのは、
この現実と虚構の刃でどう立ち向かうのか、
ということではないかしら。

そんな風に思います。

すいません余計な繰り言でした。

また面白いお芝居があるといいな。
感染防御には気を配りつつ、
劇場に足を運び続けたいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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