ドーフマン「死と乙女」(2019年小川絵梨子演出版) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
1991年にチリの劇作家アリエル・ドーフマンが執筆し、
ポランスキー監督による映画化もされ、
世界的に上演が盛んに行われている「死と乙女」が、
先日まで東京のシアタートラムで上演されました。
本日は大阪公演の予定です。
その東京の舞台に先日足を運びました。
この作品はこれまでにも何度か国内で上演されていますが、
実際に観るのは初めてです。
映画版は観ていますが、
意外に地味で動きのない物語で、
ラストもよく意味が分からず、
ポランスキー監督は大好きで、
ポランスキー監督は何かやってくれるだろう、
というような勝手な期待で鑑賞したので、
「えっ!もうこれで終わりなの?」と、
かなり失望して映画館を後にしたことを覚えています。
今回は宮沢りえ、段田安則、堤真一という、
当代これ以上はあり得ないというような豪華キャストで、
演出は翻訳劇の名手である小川絵梨子さんですから、
かなり期待を持っての観劇になりました。
この作品は1時間35分ほどの短い芝居で、
その殆どは狭い家の中の一夜の出来事です。
ある架空の南米の国で、独裁政権が倒れて民主化するのですが、
新しい政権で重要なポストを得た、
堤真一演じる男性の妻(宮沢りえ)は、
かつて反政府運動に関わっていて、
性的な拷問を受け、そのことを夫にも話せずにいます。
ある夜に偶然に段田安則演じる医師が、
その家を訪れるのですが、
その声を聴いた妻は、
それがかつて自分を拷問した男のものであったと確信します。
そして、家で寝入った男を縛り上げると、
かつての罪を告白させようとします。
そこで3人の男女の関係は緊張の極を迎えることになるのです。
大変現代的で巧みに構成された物語だと思います。
環境の変化によって善悪が逆転し、
決して悪人でも善人でもない多くの人達が、
その変化により翻弄されるというのは、
どんな世界でもあり得る話ですし、
性的に陵辱された女性が、
そのトラウマをどのようにして克服するべきかというのも、
極めて現代的なテーマです。
ヒロインの女性は、
かつての敵と夫という2人の男を相手にして、
その悪と対峙するのですが、
夫も男であることには違いがなく、
決してそこにも明確な敵味方の区別はないのです。
そして、表面的な物語の裏には、
ある種倒錯的な性と暴力と快楽の問題が潜んでいます。
この複雑で現代的な物語を、
3人のみのキャストの1時間半ほどのドラマに、
結晶体のように凝集させたという点に、
この作品の見事さがあります。
その点ではさすがの名作ですし、
世界中の演出家がこぞって上演し、
映画化もされたのも分かります。
ただ、上演した作品が面白いかと言うと、
それはまた別の話です。
映画も詰まらなかったですし、
今回の上演も正直あまり面白くはありませんでした。
台詞自体は結構過激で緊迫感もあるのですが、
舞台としてはあまり動きがありません。
ラストはヒロインが医師を殺す寸前で暗転し、
原作の記載ではそこで鏡が下りて来て、
舞台上に観客の姿が映し出される、
という趣向になっていて、
その後に場面は数ヶ月後に跳ぶのですが、
そこでも医師が死んだかどうかは、
明らかにはされません。
モヤモヤしたまま終わってしまいます。
宮沢りえさんは頑張っていたと思うのです。
ただ、この芝居はもっと肉感的で、
暴力的な感じ、裏に潜む性的な感じが、
観客に生々しく感じられないといけないと思うのです。
かつてヒロインは壮絶な拷問を受けた訳で、
それが妄想として再現されるというのが、
この作品の肝ですから、
観客に戦慄を感じさせるような必要性があるのです。
そういう芝居というのは、
今の日本の商業演劇では無理ですよね。
それは堤さん段田さんの男優陣も同じであったように思います。
小川さんの演出はいつも通りにセンスのあるものでしたが、
この肉感的な芝居に対しては、
ちょっと力不足という感じがありました。
ラストに宮沢りえと段田安則が目を合わせるところに、
心の深淵を感じさせるような狙いがあったと思うのですが、
それが説得力を持つには、
それまでの嵐の夜の2人の対峙の中に、
もっと強烈で性的なニュアンスが、
必要であったように思いました。
ラストの鏡はやっていませんでしたが、
これはやらなくて正解と感じました。
そんな訳で一観客としては、
あまり面白い芝居ではありませんでしたが、
この作品が名作であることは、
改めて認識させてくれる上演ではありました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
1991年にチリの劇作家アリエル・ドーフマンが執筆し、
ポランスキー監督による映画化もされ、
世界的に上演が盛んに行われている「死と乙女」が、
先日まで東京のシアタートラムで上演されました。
本日は大阪公演の予定です。
その東京の舞台に先日足を運びました。
この作品はこれまでにも何度か国内で上演されていますが、
実際に観るのは初めてです。
映画版は観ていますが、
意外に地味で動きのない物語で、
ラストもよく意味が分からず、
ポランスキー監督は大好きで、
ポランスキー監督は何かやってくれるだろう、
というような勝手な期待で鑑賞したので、
「えっ!もうこれで終わりなの?」と、
かなり失望して映画館を後にしたことを覚えています。
今回は宮沢りえ、段田安則、堤真一という、
当代これ以上はあり得ないというような豪華キャストで、
演出は翻訳劇の名手である小川絵梨子さんですから、
かなり期待を持っての観劇になりました。
この作品は1時間35分ほどの短い芝居で、
その殆どは狭い家の中の一夜の出来事です。
ある架空の南米の国で、独裁政権が倒れて民主化するのですが、
新しい政権で重要なポストを得た、
堤真一演じる男性の妻(宮沢りえ)は、
かつて反政府運動に関わっていて、
性的な拷問を受け、そのことを夫にも話せずにいます。
ある夜に偶然に段田安則演じる医師が、
その家を訪れるのですが、
その声を聴いた妻は、
それがかつて自分を拷問した男のものであったと確信します。
そして、家で寝入った男を縛り上げると、
かつての罪を告白させようとします。
そこで3人の男女の関係は緊張の極を迎えることになるのです。
大変現代的で巧みに構成された物語だと思います。
環境の変化によって善悪が逆転し、
決して悪人でも善人でもない多くの人達が、
その変化により翻弄されるというのは、
どんな世界でもあり得る話ですし、
性的に陵辱された女性が、
そのトラウマをどのようにして克服するべきかというのも、
極めて現代的なテーマです。
ヒロインの女性は、
かつての敵と夫という2人の男を相手にして、
その悪と対峙するのですが、
夫も男であることには違いがなく、
決してそこにも明確な敵味方の区別はないのです。
そして、表面的な物語の裏には、
ある種倒錯的な性と暴力と快楽の問題が潜んでいます。
この複雑で現代的な物語を、
3人のみのキャストの1時間半ほどのドラマに、
結晶体のように凝集させたという点に、
この作品の見事さがあります。
その点ではさすがの名作ですし、
世界中の演出家がこぞって上演し、
映画化もされたのも分かります。
ただ、上演した作品が面白いかと言うと、
それはまた別の話です。
映画も詰まらなかったですし、
今回の上演も正直あまり面白くはありませんでした。
台詞自体は結構過激で緊迫感もあるのですが、
舞台としてはあまり動きがありません。
ラストはヒロインが医師を殺す寸前で暗転し、
原作の記載ではそこで鏡が下りて来て、
舞台上に観客の姿が映し出される、
という趣向になっていて、
その後に場面は数ヶ月後に跳ぶのですが、
そこでも医師が死んだかどうかは、
明らかにはされません。
モヤモヤしたまま終わってしまいます。
宮沢りえさんは頑張っていたと思うのです。
ただ、この芝居はもっと肉感的で、
暴力的な感じ、裏に潜む性的な感じが、
観客に生々しく感じられないといけないと思うのです。
かつてヒロインは壮絶な拷問を受けた訳で、
それが妄想として再現されるというのが、
この作品の肝ですから、
観客に戦慄を感じさせるような必要性があるのです。
そういう芝居というのは、
今の日本の商業演劇では無理ですよね。
それは堤さん段田さんの男優陣も同じであったように思います。
小川さんの演出はいつも通りにセンスのあるものでしたが、
この肉感的な芝居に対しては、
ちょっと力不足という感じがありました。
ラストに宮沢りえと段田安則が目を合わせるところに、
心の深淵を感じさせるような狙いがあったと思うのですが、
それが説得力を持つには、
それまでの嵐の夜の2人の対峙の中に、
もっと強烈で性的なニュアンスが、
必要であったように思いました。
ラストの鏡はやっていませんでしたが、
これはやらなくて正解と感じました。
そんな訳で一観客としては、
あまり面白い芝居ではありませんでしたが、
この作品が名作であることは、
改めて認識させてくれる上演ではありました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2019-10-19 06:12
nice!(5)
コメント(0)
コメント 0