長塚圭史「アジアの女」(2019年吉田鋼太郎演出版) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
2006年に新国立劇場の演劇公演として初演された、
「アジアの女」というお芝居が、
シアターコクーンで吉田鋼太郎さんの演出の元に、
装いも新たに再演されています。
これは東京で大震災が起こって東京が隔離され、
そこに取り残された兄妹と、
そこに関わる作家を中心とした物語です。
立ち入り禁止区域の廃屋に住み続ける兄妹であるとか、
そこに入り込んだボランティアや、
住みついた外国人とのトラブルなど、
今観るとどう考えても東日本大震災後のドラマなのですが、
実際にはずっと以前に書かれたものです。
僕は初演版も観ていますが、
初演観劇当時は大袈裟で曖昧な設定に、
釈然としない気分になったのが実際でした。
ただ、今改めて再見してみると、
当時の長塚さんの先見性というか予見性のようなものに、
「冴えていたのね」と素直に感心しました。
この作品は欧米の台詞劇に近いスタイルを狙ったもので、
初演の作家役は岩松了さんでしたから、
岩松さんの劇作のスタイルに、
長塚さんが挑戦した、というニュアンスもありました。
食い詰めた若者の殺し合いのような、
暴力性やすさんだ情感が長塚さんの初期のスタイルでしたが、
この作品では暴力は舞台の外でしか起こらないので、
長塚さんの過激な芝居を見慣れていた当時は、
物足りない気分になったことも事実です。
ただ、その後の長塚さんの劇作は、
どちらかと言えば過激を封印した作家の自分探しのドラマに、
傾斜していったように思います。
これは言ってみれば、
フィクションに何が出来るかに葛藤し苦悩する、
長塚さんの自分探しのドラマの原点のような意味合いの作品なのです。
初演は新国立劇場の小劇場で、
登場人物も5人と少人数ですから、
元々小劇場向けに書かれたお芝居です。
それを今回は中劇場でもやや大きい部類のシアターコクーンで、
石原さとみさんがヒロインを演じ、
吉田鋼太郎さんが主演を勤めて演出にも当たるという、
豪華版の再演を行なっています。
吉田鋼太郎さんの演出は果たして…
と思って観ていると、
いきなりバーバーの「弦楽のためのアダージョ」が流れて、
崩れかけた家々の大セットに、
多方向から万華鏡のような照明が当たり、
真っ赤な衣装のヒロインが、
強烈な白いスポットに照らし出されて、
芽の出る筈のないコンクリの地面に、
種を播き水を撒いているので、
「これ、蜷川幸雄じゃん」と、
驚き半分、納得半分という気持ちになりました。
その後もラストの外開きを含めて、
まごうことなき蜷川演出で、
多分スタッフも同じなのだと思いますし、
懐かしい蜷川芝居が展開されたのです。
こうなると、吉田鋼太郎さんは今回の企画の中で、
どの程度の役割を果たしていたのかしら、
というのは疑問に感じるところです。
主役で普段より演技にも力が入っている感じでしたから、
演出に傾注したというようにも思えませんし、
「これは蜷川芝居でやりますね」
という企画意図に乗っかって、
お任せでこんな感じになったのではないかな、
というように推察はされますが、
それが事実であるかどうかは分かりません。
トータルな舞台の感想としては、
初演より色々な意味でスケールアップしていて、
キャストも数段豪華で見応えがありました。
石原さとみさんは声が悪いのが、
舞台ではやや難点ですが、
さすがに華がありますし、
役柄にも合っていました。
その兄を演じた山内圭哉さんはおそらく今回のMVPで、
心優しいろくでなしのアルコール中毒者を、
リアルかつ繊細に演じていました。
良かったですよね。
特に後半石原さとみさんとの2人の場面は、
「ガラスの動物園」を彷彿させるような、
繊細な名場面になっていました。
才能のない作家を演じた吉田鋼太郎さんも、
最近は明らかに置いているような、
手抜きのお芝居が多かったのですが、
今回はなかなか力が入っていました。
正直コクーンの芝居としては矢張り地味な点は否めないのですが、
スターと演技派の競演は見応えがあり、
蜷川風演出もそうしたものと割り切れば、
楽しむことが出来ました。
初演よりこの作品の真価が感じられる舞台でした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で午前中は石田医師が、
午後2時以降は石原が外来を担当する予定です。
土曜日は趣味の話題です。
今日はこちら。
2006年に新国立劇場の演劇公演として初演された、
「アジアの女」というお芝居が、
シアターコクーンで吉田鋼太郎さんの演出の元に、
装いも新たに再演されています。
これは東京で大震災が起こって東京が隔離され、
そこに取り残された兄妹と、
そこに関わる作家を中心とした物語です。
立ち入り禁止区域の廃屋に住み続ける兄妹であるとか、
そこに入り込んだボランティアや、
住みついた外国人とのトラブルなど、
今観るとどう考えても東日本大震災後のドラマなのですが、
実際にはずっと以前に書かれたものです。
僕は初演版も観ていますが、
初演観劇当時は大袈裟で曖昧な設定に、
釈然としない気分になったのが実際でした。
ただ、今改めて再見してみると、
当時の長塚さんの先見性というか予見性のようなものに、
「冴えていたのね」と素直に感心しました。
この作品は欧米の台詞劇に近いスタイルを狙ったもので、
初演の作家役は岩松了さんでしたから、
岩松さんの劇作のスタイルに、
長塚さんが挑戦した、というニュアンスもありました。
食い詰めた若者の殺し合いのような、
暴力性やすさんだ情感が長塚さんの初期のスタイルでしたが、
この作品では暴力は舞台の外でしか起こらないので、
長塚さんの過激な芝居を見慣れていた当時は、
物足りない気分になったことも事実です。
ただ、その後の長塚さんの劇作は、
どちらかと言えば過激を封印した作家の自分探しのドラマに、
傾斜していったように思います。
これは言ってみれば、
フィクションに何が出来るかに葛藤し苦悩する、
長塚さんの自分探しのドラマの原点のような意味合いの作品なのです。
初演は新国立劇場の小劇場で、
登場人物も5人と少人数ですから、
元々小劇場向けに書かれたお芝居です。
それを今回は中劇場でもやや大きい部類のシアターコクーンで、
石原さとみさんがヒロインを演じ、
吉田鋼太郎さんが主演を勤めて演出にも当たるという、
豪華版の再演を行なっています。
吉田鋼太郎さんの演出は果たして…
と思って観ていると、
いきなりバーバーの「弦楽のためのアダージョ」が流れて、
崩れかけた家々の大セットに、
多方向から万華鏡のような照明が当たり、
真っ赤な衣装のヒロインが、
強烈な白いスポットに照らし出されて、
芽の出る筈のないコンクリの地面に、
種を播き水を撒いているので、
「これ、蜷川幸雄じゃん」と、
驚き半分、納得半分という気持ちになりました。
その後もラストの外開きを含めて、
まごうことなき蜷川演出で、
多分スタッフも同じなのだと思いますし、
懐かしい蜷川芝居が展開されたのです。
こうなると、吉田鋼太郎さんは今回の企画の中で、
どの程度の役割を果たしていたのかしら、
というのは疑問に感じるところです。
主役で普段より演技にも力が入っている感じでしたから、
演出に傾注したというようにも思えませんし、
「これは蜷川芝居でやりますね」
という企画意図に乗っかって、
お任せでこんな感じになったのではないかな、
というように推察はされますが、
それが事実であるかどうかは分かりません。
トータルな舞台の感想としては、
初演より色々な意味でスケールアップしていて、
キャストも数段豪華で見応えがありました。
石原さとみさんは声が悪いのが、
舞台ではやや難点ですが、
さすがに華がありますし、
役柄にも合っていました。
その兄を演じた山内圭哉さんはおそらく今回のMVPで、
心優しいろくでなしのアルコール中毒者を、
リアルかつ繊細に演じていました。
良かったですよね。
特に後半石原さとみさんとの2人の場面は、
「ガラスの動物園」を彷彿させるような、
繊細な名場面になっていました。
才能のない作家を演じた吉田鋼太郎さんも、
最近は明らかに置いているような、
手抜きのお芝居が多かったのですが、
今回はなかなか力が入っていました。
正直コクーンの芝居としては矢張り地味な点は否めないのですが、
スターと演技派の競演は見応えがあり、
蜷川風演出もそうしたものと割り切れば、
楽しむことが出来ました。
初演よりこの作品の真価が感じられる舞台でした。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2019-09-21 06:47
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