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ナイロン100℃「睾丸」 [演劇]

こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。

今日は日曜日でクリニックは休診です。

休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ナイロン「睾丸」.jpg
結成25周年の記念公演として、
ナイロン100℃の新作「睾丸」が今上演されています。

これはナイロン100℃が旗揚げした、
1993年を舞台にして、
45歳の2人の男と1人の女性が、
25年前の1968年に、
自分達がのめりこんでいた、
学生運動の時代を振り返る、
という趣向の作品で、
3人のリーダーであった七ツ森という先輩が、
1968年に自動車事故で植物人間となり、
25年ぶりにその訃報が届く、
というところから物語は始まります。

学生運動の時代は、
アングラ演劇の1つのピークでもありましたから、
それと現代とを対比させたようなお芝居は、
これまでにも結構ありました。
たとえば鴻上尚史さんの以前の戯曲では、
学生運動の闘士が長い昏睡状態から目覚めて…
というような今回のお芝居と良く似た設定の作品がありました。

ただ、今回の作品はそうした、
ある種のノスタルジーや鎮魂と言った雰囲気に彩られたものではなく、
徹底して怜悧な筆さばきで、
過去の自分とどう向き合い、
どう落とし前を付けるべきか、
というより普遍的なテーマを、
徹底して追及した「論理の芝居」で、
サム・シェパード辺りのアメリカ演劇のドライさにも似て、
ケラさんの新たな挑戦として、
これまでのナイロン100℃の芝居とは、
完全に一線を画した、異なる肌触りの作品です。

前半1時間半、後半1時間半にきっちり分かれて、
間に10分間の休憩をはさんだ構成ですが、
特に後半待たれていた予期せぬ主人公が、
舞台に登場する辺りからの緊張感の高まりと、
その後の緻密かつドラマチックな展開が圧巻で、
ラスト1時間は小劇場でも稀に見る、
濃密な緊張感と戦慄とに舞台は包まれました。

ケラさんのこれまでの舞台は、
シリアスなスタイルのものでも、
すかしのような間や遊びがあり、
コミカルな場面などもあって、
全編計算されつくした幾何学のような作品は、
あまりなかったと思うのですが、
今回の作品はほぼ全編が、
計算されつくした人間のぶつかり合いに終始し、
遊びはほぼ皆無という結晶体のような芝居になっていました。

セットは全編変化はしませんが、
平凡な洋風日本家屋の1階の中に、
具象と抽象とを巧みに組み合わせ、
壁の浸みや屋根の亀裂に時空の狭間を感じさせながらも、
トータルに確固たる存在感を感じさせる見事なもので、
上手前方に縁側と庭のスペースを取って、
そこをメインで1968年を展開させ、
その時空の変化を、
窓ガラスに映る赤と青のライトでコントールする、
という発想もなかなか効果的です。
この辺り唐先生のテント照明のスタイルを、
換骨奪胎した趣向が成功しています。
基本的に抑制された音響と照明の効果も良く、
いつものやや濫用に感じたプロジェクション・マッピングを、
舞台が黒塗りになる場面の1回しか使用せず、
オープニングの映像も、
ガリ版のアジビラのような趣向で処理しています。

役者も新劇などを遙かに超えるリアリズムと、
それを突き抜けたシュールさを兼ね備えた、
ナイロンならではの充実した役者陣で隙がなく、
3人のメインキャストに、
みのすけさん、三宅弘城さん、坂井真紀さんを配して、
特に坂井さんが演じる、
人生で決断に誤ってばかりいる痛いヒロインは、
彼女ならではという感がありました。
また作品の肝となる主人公達のリーダーを演じた、
イキウメでお馴染みの安井順平さんの、
彼でしか出せない「不気味さ」が、
作品の核も部分を支えて見応えがありました。

作品の内容は観る人によって様々な感じ方があると思います。
僕自身はある世代に対する強い不信と悪意とを強く感じましたが、
多分その世代の方が観れば、
自分達を肯定したような見方をする筈で、
この作品は様々な見方を受け入れるような、
懐の深さを持っていると思います。
ケラさんは個人的な心情や考え方とは別に、
創作においては独自の自由さを持っていて、
それが広く支持される理由であるように感じました。

そんな訳で今回はケラさんの作品の中でも、
意欲作で新傾向であると共に、
完成度の高い傑作で、
小劇場演劇の醍醐味を心ゆくまで味わえる名品として、
全ての演劇ファンの方に自信を持ってお勧めしたいと思います。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

石原がお送りしました。
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