前川知大「プレイヤー」(2017年長塚圭史演出版) [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はお芝居の記事が2本あります。
最初はこちら。
イキウメの前川知大さんが、
2006年にイキウメで上演した「PLAYER」を、
長塚圭史さんとの共同作業で、
劇中劇スタイルの芝居として再創造し、
藤原竜也さんや仲村トオルさんを含む豪華キャストで、
「プレイヤー」という新たな作品として制作、
今渋谷のシアター・コクーンで上演されています。
最初に申し上げますと、
かなり悪口の感想になっていますので、
この作品を楽しみにされている方や、
鑑賞されて素晴らしいと思われた方は、
腹立たしく思われると思いますので、
どうかこれから先はお読みにならないようにお願いします。
死んだ人間が、
生前のその人を知っている生者の協力で、
その「言葉」の情報として再生される、
という前川さんらしいホラーSFのような原作を、
急死した脚本家の戯曲としてそのまま使用し、
その戯曲を俳優が稽古場で練習しているというていで、
物語は展開されます。
つまり、2006年版の物語を入れ子にして、
劇中劇として上演するという趣向です。
宣伝などの資料を読む限り、
この劇中劇にするという趣向は、
長塚圭史さんから前川さんに提案され、
それに沿って前川さんが戯曲を書き直した、
という経緯のようです。
ただ、これは敢くまで僕の個人的な考えですが、
およそ劇中劇のような構造を取った戯曲で、
あまり面白くなったためしはないように思います。
特に元々は普通の戯曲であったものを、
後から劇中劇の入れ子構造に直した作品でそれが顕著です。
それは何故かと言えば、
劇中劇という構造は、
作品世界と客席との距離感をより遠くしてしまうからです。
特に額縁(プロセニアム)形式の舞台を、
客席から鑑賞するような場合には、
観客の立場からは、
遠くの四角い舞台で行われている世界に、
集中して無理をして同期してゆくような作業が必要になります。
これは実際には結構しんどいことなのです。
それが劇中劇の構造となると、
舞台上の世界に慣れた上に、
更にそこで演じられる世界にも慣れないといけない、
という二重の苦労が生じることになります。
こうした作品を書いたり上演したりする立場からは、
観客と俳優との関係を、
劇中劇のスタイルを取ることにより、
相対化するような面白みを感じているのではないかと思うのですが、
それは概ね芸術家の独りよがりであって、
観客に通常より大きな緊張や集中力を強いている、
という視点が欠けているのではないかと思います。
こうした劇中劇の構造は、
小説や映像のメディアであれば、
有効に機能することが多いのです。
映像や小説であれば、
劇中劇の中の世界と、
それを演じている世界とを、
全く同じように表現し、
それを瞬時に切り替えることが出来るからです。
しかし、それを演劇で表現する時には、
舞台の上にまた舞台を置くような、
面倒極まりないことをしなくてはならず、
そうした構造が舞台全体をゴタゴタさせて、
観客の集中力を奪い、
無意味な疲労に導く結果になるのです。
今回の上演はその最たるもので、
舞台はある地方都市の公共劇場のリハーサル室に設定され、
そこに沢山のパイプ椅子が置かれていて、
そこで死亡した無名の劇作家による「PLAYER」という戯曲の、
練習が行われている、という設定になっています。
作品の8割くらいは、
実際には「PLAYER」という戯曲の世界が展開されています。
しかし、リハーサル室で上演、
という設定があるので、
何かセットも衣装も全てが中途半端です。
更にはリハーサルの段取りのようなものが間に入るので、
全体がメリハリなくダラダラとして、
「早く話を進めてくれよ!」というイライラが、
観客には募ることになるのです。
この作品で劇中劇にした意味は何でしょうか?
結局は最後に「オチ」が付くだけです。
そして、そのオチは誰でも観ていれば、
想像の付くような凡庸なものです。
こんな凡庸なオチだけのために、
わざわざ劇中劇のゴタゴタを用意したのかと思うと、
その馬鹿馬鹿しさには脱力するしかありません。
はっきり言えば今回の劇中劇の構造は、
無意味だったと思います。
前川さん自身も、
こうしたひねった趣向で、
自分の過去の作品を改変し、
それが結局は改悪になっていることが多いと思います。
長塚圭史さんも、
分かりにくく回りくどい演出をして、
それが却って作品の力を削いでいる、
というような作品が最近は多いように思います。
三好十郎の「浮標」なども、
そのまま上演した方が良いに決まっているのに、
わざわざリハーサルの劇中劇的な趣向を使って失敗していました。
そうした同じ欠点を持つ2人のコラボレーションというのが、
どうも悪い方向に増強されてしまった、というのが、
今回の作品であったように個人的には思います。
作品世界はなかなか魅力的だと思うのです。
カルト宗教などを想起はさせますが、
それだけではない前川さんの独自の解釈や世界観が魅力です。
しかし、それをゴチャゴチャと劇中劇にしたのは大失敗ですし、
キャストも無駄に豪華で、
集客という以上に、
あまり出演に意味がなかったと思われるような、
殆ど見せ場のないキャストも多かったのは残念でした。
そんな訳で、
僕は前川知大さんの「太陽」も「聖地X」も、
長塚圭史さんの「はたらくおとこ」も大好きで、
お二人ともとてもとても尊敬しているので、
個人的にはとても残念な上演でした。
ただ、ネットの感想などを見ると、
大絶賛のものも多いので、
これはもう感覚の違いなのだと思います。
この作品を御覧になって、
面白いと思われた方は、
どうか色々な意見があるということで、
ご容赦を頂きたいと思います。
僕ははっきり駄目でした。
それでは2本目の記事に続きます。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はお芝居の記事が2本あります。
最初はこちら。
イキウメの前川知大さんが、
2006年にイキウメで上演した「PLAYER」を、
長塚圭史さんとの共同作業で、
劇中劇スタイルの芝居として再創造し、
藤原竜也さんや仲村トオルさんを含む豪華キャストで、
「プレイヤー」という新たな作品として制作、
今渋谷のシアター・コクーンで上演されています。
最初に申し上げますと、
かなり悪口の感想になっていますので、
この作品を楽しみにされている方や、
鑑賞されて素晴らしいと思われた方は、
腹立たしく思われると思いますので、
どうかこれから先はお読みにならないようにお願いします。
死んだ人間が、
生前のその人を知っている生者の協力で、
その「言葉」の情報として再生される、
という前川さんらしいホラーSFのような原作を、
急死した脚本家の戯曲としてそのまま使用し、
その戯曲を俳優が稽古場で練習しているというていで、
物語は展開されます。
つまり、2006年版の物語を入れ子にして、
劇中劇として上演するという趣向です。
宣伝などの資料を読む限り、
この劇中劇にするという趣向は、
長塚圭史さんから前川さんに提案され、
それに沿って前川さんが戯曲を書き直した、
という経緯のようです。
ただ、これは敢くまで僕の個人的な考えですが、
およそ劇中劇のような構造を取った戯曲で、
あまり面白くなったためしはないように思います。
特に元々は普通の戯曲であったものを、
後から劇中劇の入れ子構造に直した作品でそれが顕著です。
それは何故かと言えば、
劇中劇という構造は、
作品世界と客席との距離感をより遠くしてしまうからです。
特に額縁(プロセニアム)形式の舞台を、
客席から鑑賞するような場合には、
観客の立場からは、
遠くの四角い舞台で行われている世界に、
集中して無理をして同期してゆくような作業が必要になります。
これは実際には結構しんどいことなのです。
それが劇中劇の構造となると、
舞台上の世界に慣れた上に、
更にそこで演じられる世界にも慣れないといけない、
という二重の苦労が生じることになります。
こうした作品を書いたり上演したりする立場からは、
観客と俳優との関係を、
劇中劇のスタイルを取ることにより、
相対化するような面白みを感じているのではないかと思うのですが、
それは概ね芸術家の独りよがりであって、
観客に通常より大きな緊張や集中力を強いている、
という視点が欠けているのではないかと思います。
こうした劇中劇の構造は、
小説や映像のメディアであれば、
有効に機能することが多いのです。
映像や小説であれば、
劇中劇の中の世界と、
それを演じている世界とを、
全く同じように表現し、
それを瞬時に切り替えることが出来るからです。
しかし、それを演劇で表現する時には、
舞台の上にまた舞台を置くような、
面倒極まりないことをしなくてはならず、
そうした構造が舞台全体をゴタゴタさせて、
観客の集中力を奪い、
無意味な疲労に導く結果になるのです。
今回の上演はその最たるもので、
舞台はある地方都市の公共劇場のリハーサル室に設定され、
そこに沢山のパイプ椅子が置かれていて、
そこで死亡した無名の劇作家による「PLAYER」という戯曲の、
練習が行われている、という設定になっています。
作品の8割くらいは、
実際には「PLAYER」という戯曲の世界が展開されています。
しかし、リハーサル室で上演、
という設定があるので、
何かセットも衣装も全てが中途半端です。
更にはリハーサルの段取りのようなものが間に入るので、
全体がメリハリなくダラダラとして、
「早く話を進めてくれよ!」というイライラが、
観客には募ることになるのです。
この作品で劇中劇にした意味は何でしょうか?
結局は最後に「オチ」が付くだけです。
そして、そのオチは誰でも観ていれば、
想像の付くような凡庸なものです。
こんな凡庸なオチだけのために、
わざわざ劇中劇のゴタゴタを用意したのかと思うと、
その馬鹿馬鹿しさには脱力するしかありません。
はっきり言えば今回の劇中劇の構造は、
無意味だったと思います。
前川さん自身も、
こうしたひねった趣向で、
自分の過去の作品を改変し、
それが結局は改悪になっていることが多いと思います。
長塚圭史さんも、
分かりにくく回りくどい演出をして、
それが却って作品の力を削いでいる、
というような作品が最近は多いように思います。
三好十郎の「浮標」なども、
そのまま上演した方が良いに決まっているのに、
わざわざリハーサルの劇中劇的な趣向を使って失敗していました。
そうした同じ欠点を持つ2人のコラボレーションというのが、
どうも悪い方向に増強されてしまった、というのが、
今回の作品であったように個人的には思います。
作品世界はなかなか魅力的だと思うのです。
カルト宗教などを想起はさせますが、
それだけではない前川さんの独自の解釈や世界観が魅力です。
しかし、それをゴチャゴチャと劇中劇にしたのは大失敗ですし、
キャストも無駄に豪華で、
集客という以上に、
あまり出演に意味がなかったと思われるような、
殆ど見せ場のないキャストも多かったのは残念でした。
そんな訳で、
僕は前川知大さんの「太陽」も「聖地X」も、
長塚圭史さんの「はたらくおとこ」も大好きで、
お二人ともとてもとても尊敬しているので、
個人的にはとても残念な上演でした。
ただ、ネットの感想などを見ると、
大絶賛のものも多いので、
これはもう感覚の違いなのだと思います。
この作品を御覧になって、
面白いと思われた方は、
どうか色々な意見があるということで、
ご容赦を頂きたいと思います。
僕ははっきり駄目でした。
それでは2本目の記事に続きます。
2017-08-27 08:28
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