岩松了「少女ミウ」 [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当する予定です。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
現代を代表する劇作家と言っても良い、
岩松了さんの新作が、
若手中心のキャストで、
下北沢のザ・スズナリという小空間で上演されています。
若手中心とは言っても、
メインは黒島結菜さんと堀井新太さんという、
人気のある2人で、
岩松さんならではの、
とても贅沢な布陣になっています。
岩松了さんは、
別役実とチェーホフをお手本に、
見かけ上さりげない日常会話の積み重ねの中に、
隠されたドラマが進行するという、
独特のスタイルを確立し、
精力的な演劇活動を行っています。
岩松さんはその上かなり意地悪な人で、
いつも観客の心理を翻弄するような仕掛けをしていて、
ラストでは観客の予測を裏切り煙に巻くのです。
以前は娯楽性を否定するようなところがあり、
徹底してドラマチックな要素も排除していたのですが、
最近の作品はかなり通常のお芝居に近いようなものもあり、
1つの形式にこだわらない、
多様性のある作品が生まれています。
今回の新作は、
かなり凝りに凝った設定で、
福島の原発事故(劇中では具体的な名称は出ない)
に翻弄された家族の物語を下敷きに、
事故の6年後の現在に、
それをドキュメンタリーとして取り上げようとするテレビ局と、
震災で翻弄された2人の少女との葛藤の中から、
抑圧されていた過去の物語と、
事実が報道により変容してゆく様を描いたものです。
以前の岩松さんの作劇であれば、
6年前の出来事は全く舞台には登場しなかったと思うのですが、
今回の芝居では、
一段上がった奥にテレビのモニターの枠にも見える舞台を配置して、
そこで過去の出来事が再現されるという仕掛けを作り、
以前より分かりやすく戯曲の構造を提示しています。
ただ、そうは言っても意地悪な岩松さんは、
過去の家族のドラマが、
単純に理解出来るような作劇にはしていません。
過去は常に意図的に作り変えられ、
ある人物の体験が別の人物の体験として再生されたりもするので、
結局はラストには観客は幻惑され翻弄されて終わることになるのです。
岩松マジックは健在だと感じました。
以下ネタバレを含む感想です。
通常は観劇後に読んで頂きたいのですが、
岩松了さんの作品については、
ある程度の予備知識があった方が良いように思います。
予備知識があっても、
結局はよく分からなくなってしまうからです。
主人公の黒島さん演じる少女ミウの父親は、
東京電力(劇中では名称はぼかされています)
の原発事故の賠償の担当責任者になっていて、
その罰であるかのように、
ミウの両親と姉夫婦の5人は、
本来は住んではいけない筈の避難区域に住んでいます。
そこに住むに至った経緯はしかし、
母親が自分が暮らしたいから、と言ったようでもあり、
父親がそれを望んだようでもあります。
ある日父親は忽然と失踪をしてしまい、
それから数か月してミウと同い年の、
アオキユウコという少女が、
父親の隠し子として登場します。
そして、アオキユウコと食事をした直後、
ミウの母親と姉夫婦は姉のお腹にいる8か月の胎児もろとも、
拳銃で自死してしまいます。
作品はまず奥の舞台を使って、
一家心中同日の、
食後の時刻から始まり、
一家の殺し合いをそのまま上演すると、
そこで銀色の幕が瞳孔のように奥の舞台を塞ぎ、
前の舞台で6年後のテレビ局の控室に場面が移ります。
そこでは力強く復興に進む被災地の特集が、
数か月の報道生番組として収録されていて、
そこにミウと異母妹のアオキユウコがゲストとして招かれています。
番組のアンカーマンである堀井新太演じる広沢は、
どうやら過去にミウやアオキユウコのことを知っているようです。
プロデューサーのたとえ嘘が混じっても良いので復興を演出したい、
という考えに反発し、
アンカーマンを降りてしまうのですが、
そこには何か裏もありそうです。
アオキユウコはミウと父親との思い出を、
自分のことのように語り、
自分も避難区域で暮らしていたような嘘を、
平然とテレビで話します。
一方でミウは茶化すような発言を繰り返して、
自分の言葉で過去を語ろうとはしません。
そのうちに、
広沢とミウとアオキユウコは、
三角関係であるように喧伝されます。
広沢は避難区域のミウの一家を、
隣で監視していたようなのですが、
それがなぜであるのかは良く分かりません。
そして、現実であるのか別個の情景であるのかフィクションであるのか、
判然としないような状況で、
広沢の子供を姉と同じように孕んだミウが、
広沢を毒殺する情景が描かれます。
それは、ミウの父親がひそかに殺されたことを、
暗示しているようにも思われます。
つまり、過去に家族の悲劇があって、
それが謎の一家心中に繋がっているのですが、
家族が死んだ本当の理由は、
実際には明らかになることがありません。
不幸の根にある震災の記憶自体が、
意図優先の報道によって歪められ変容してゆくのですから、
その奥にある家族の悲劇などは、
分からなくて当然なのかも知れません。
過去の岩松作品の傾向から考えれば、
ミウの父親は殺されていて、
それを知っていた広沢は、
ミウの家の前に石を置いていたようにも思われます。
生まれない子供も1つのキーワードになっていて、
そこには震災が大きな影を落としています。
登場人物の1人が町田康の「告白」の分厚い文庫本を、
意味ありげに手にもっていたり、
奇形の昆虫が瓶に入れられる様子が反復されたり、
テレビ局のスタッフに相似の女性との三角関係が匂わされるのも、
隠されたものを重層的にほのめかしているように思います。
「告白」は人間が人間を殺す心理を、
テーマにした傑作であるからです。
台詞は岩松作品の中でも非常に詩的で、
「全てはドラマになる。見えないからこそ全てがある」
という発言には、
岩松さんの演劇論が見え隠れしています。
「見える世界と見えない世界が半分ずつあって、少しずつ見えない世界が多くなる」
というのも不気味で素敵ですし、
人間と生まれた以上家族であることだけは捨てられない、
という指摘も残酷です。
作品構造はかなり様式的で、
一家心中の場面などは別役そっくりの台詞もあります。
舞台の使い方はちょっと窮屈にも感じます。
ただ、何処を切っても岩松了という感じの力作で、
この幻惑される感じが、
最近はとても心地良く思えるのです。
主役2人もとてもとても魅力的で、
小空間での観劇はとても贅沢に感じました。
ご興味のある方は是非。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は土曜日で、
午前午後とも石原が外来を担当する予定です。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
現代を代表する劇作家と言っても良い、
岩松了さんの新作が、
若手中心のキャストで、
下北沢のザ・スズナリという小空間で上演されています。
若手中心とは言っても、
メインは黒島結菜さんと堀井新太さんという、
人気のある2人で、
岩松さんならではの、
とても贅沢な布陣になっています。
岩松了さんは、
別役実とチェーホフをお手本に、
見かけ上さりげない日常会話の積み重ねの中に、
隠されたドラマが進行するという、
独特のスタイルを確立し、
精力的な演劇活動を行っています。
岩松さんはその上かなり意地悪な人で、
いつも観客の心理を翻弄するような仕掛けをしていて、
ラストでは観客の予測を裏切り煙に巻くのです。
以前は娯楽性を否定するようなところがあり、
徹底してドラマチックな要素も排除していたのですが、
最近の作品はかなり通常のお芝居に近いようなものもあり、
1つの形式にこだわらない、
多様性のある作品が生まれています。
今回の新作は、
かなり凝りに凝った設定で、
福島の原発事故(劇中では具体的な名称は出ない)
に翻弄された家族の物語を下敷きに、
事故の6年後の現在に、
それをドキュメンタリーとして取り上げようとするテレビ局と、
震災で翻弄された2人の少女との葛藤の中から、
抑圧されていた過去の物語と、
事実が報道により変容してゆく様を描いたものです。
以前の岩松さんの作劇であれば、
6年前の出来事は全く舞台には登場しなかったと思うのですが、
今回の芝居では、
一段上がった奥にテレビのモニターの枠にも見える舞台を配置して、
そこで過去の出来事が再現されるという仕掛けを作り、
以前より分かりやすく戯曲の構造を提示しています。
ただ、そうは言っても意地悪な岩松さんは、
過去の家族のドラマが、
単純に理解出来るような作劇にはしていません。
過去は常に意図的に作り変えられ、
ある人物の体験が別の人物の体験として再生されたりもするので、
結局はラストには観客は幻惑され翻弄されて終わることになるのです。
岩松マジックは健在だと感じました。
以下ネタバレを含む感想です。
通常は観劇後に読んで頂きたいのですが、
岩松了さんの作品については、
ある程度の予備知識があった方が良いように思います。
予備知識があっても、
結局はよく分からなくなってしまうからです。
主人公の黒島さん演じる少女ミウの父親は、
東京電力(劇中では名称はぼかされています)
の原発事故の賠償の担当責任者になっていて、
その罰であるかのように、
ミウの両親と姉夫婦の5人は、
本来は住んではいけない筈の避難区域に住んでいます。
そこに住むに至った経緯はしかし、
母親が自分が暮らしたいから、と言ったようでもあり、
父親がそれを望んだようでもあります。
ある日父親は忽然と失踪をしてしまい、
それから数か月してミウと同い年の、
アオキユウコという少女が、
父親の隠し子として登場します。
そして、アオキユウコと食事をした直後、
ミウの母親と姉夫婦は姉のお腹にいる8か月の胎児もろとも、
拳銃で自死してしまいます。
作品はまず奥の舞台を使って、
一家心中同日の、
食後の時刻から始まり、
一家の殺し合いをそのまま上演すると、
そこで銀色の幕が瞳孔のように奥の舞台を塞ぎ、
前の舞台で6年後のテレビ局の控室に場面が移ります。
そこでは力強く復興に進む被災地の特集が、
数か月の報道生番組として収録されていて、
そこにミウと異母妹のアオキユウコがゲストとして招かれています。
番組のアンカーマンである堀井新太演じる広沢は、
どうやら過去にミウやアオキユウコのことを知っているようです。
プロデューサーのたとえ嘘が混じっても良いので復興を演出したい、
という考えに反発し、
アンカーマンを降りてしまうのですが、
そこには何か裏もありそうです。
アオキユウコはミウと父親との思い出を、
自分のことのように語り、
自分も避難区域で暮らしていたような嘘を、
平然とテレビで話します。
一方でミウは茶化すような発言を繰り返して、
自分の言葉で過去を語ろうとはしません。
そのうちに、
広沢とミウとアオキユウコは、
三角関係であるように喧伝されます。
広沢は避難区域のミウの一家を、
隣で監視していたようなのですが、
それがなぜであるのかは良く分かりません。
そして、現実であるのか別個の情景であるのかフィクションであるのか、
判然としないような状況で、
広沢の子供を姉と同じように孕んだミウが、
広沢を毒殺する情景が描かれます。
それは、ミウの父親がひそかに殺されたことを、
暗示しているようにも思われます。
つまり、過去に家族の悲劇があって、
それが謎の一家心中に繋がっているのですが、
家族が死んだ本当の理由は、
実際には明らかになることがありません。
不幸の根にある震災の記憶自体が、
意図優先の報道によって歪められ変容してゆくのですから、
その奥にある家族の悲劇などは、
分からなくて当然なのかも知れません。
過去の岩松作品の傾向から考えれば、
ミウの父親は殺されていて、
それを知っていた広沢は、
ミウの家の前に石を置いていたようにも思われます。
生まれない子供も1つのキーワードになっていて、
そこには震災が大きな影を落としています。
登場人物の1人が町田康の「告白」の分厚い文庫本を、
意味ありげに手にもっていたり、
奇形の昆虫が瓶に入れられる様子が反復されたり、
テレビ局のスタッフに相似の女性との三角関係が匂わされるのも、
隠されたものを重層的にほのめかしているように思います。
「告白」は人間が人間を殺す心理を、
テーマにした傑作であるからです。
台詞は岩松作品の中でも非常に詩的で、
「全てはドラマになる。見えないからこそ全てがある」
という発言には、
岩松さんの演劇論が見え隠れしています。
「見える世界と見えない世界が半分ずつあって、少しずつ見えない世界が多くなる」
というのも不気味で素敵ですし、
人間と生まれた以上家族であることだけは捨てられない、
という指摘も残酷です。
作品構造はかなり様式的で、
一家心中の場面などは別役そっくりの台詞もあります。
舞台の使い方はちょっと窮屈にも感じます。
ただ、何処を切っても岩松了という感じの力作で、
この幻惑される感じが、
最近はとても心地良く思えるのです。
主役2人もとてもとても魅力的で、
小空間での観劇はとても贅沢に感じました。
ご興味のある方は是非。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2017-05-27 08:26
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