アガリスクエンターテイメント「わが家の最終的解決」 [演劇]
こんにちは。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
午後からベルリン・フィルの第9に行く予定です。
今年は春にベルリン・フィルの第9で、
秋にはウィーンフィルの第9(行けませんが…)
というびっくりの日程です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ちょっと三谷幸喜さんを思わせる、
緻密なシチュエーションコメディで、
魅力的な作品を上演している、
冨坂友さんが主宰する劇団、
アガリスクエンターテイメントの新作公演が、
本日まで池袋で上演されています。
この劇団は、
昨年の「紅白旗合戦」が初見で、
舞台の技術的な質には、
問題のある部分もありましたが、
魅力的で緻密な劇作には、
非常に感心しました。
今回は新作ということで楽しみにして出掛けました。
ただ、正直今回は、
重く自由度の少ない素材を、
無理矢理に軽く扱うような劇作の姿勢に、
個人的には疑問を感じて、
後半はとても乗り切れない気分でつらい観劇となりました。
ユダヤ人とナチスの問題を描いてコメディに、
という不可能とも思えるプロットに真っ向から取り組んだ意欲は、
あっぱれなものだとは思うのですが、
もっと無理のない設定で、
楽しいコメディを見せて欲しかったと思いました。
ただ、これを面白いと感じる方も多いと思いますので、
これはもう色々な感想があって良いのだと思います。
以下ネタバレを含む感想です。
今回の作品は第二次世界大戦で、
ドイツ支配下のオランダが舞台で、
アムステルダムで隠し部屋に暮らす、
少女が主人公という、
もろ「アンネの日記」という設定です。
ただ、こちらの少女はもう結婚適齢期で、
かくまわれているボーイフレンドが、
実はゲシュタポの一員という趣向です。
ボーイフレンドは勿論、
自分がゲシュタポであることは隠しているのですが、
そこに少女の家族と、
少女の幼馴染で少女を恋する少年が、
まとめて逃げ込んで来るので、
ユダヤ人をかくまいながら、
自分がゲシュタポであることも隠すという、
二重の困難に直面したボーイフレンドが、
忠実な執事と強力しながら、
その危機をいかにして脱出するか、
と言う物語です。
オープニングはドイツの執事が、
ゲシュタポのボーイフレンドの下宿を訪れる、
という場面から始まりますが、
最初に「隠れて!」という台詞で、
少女が隠し部屋に隠れるところから、
すぐに執事の入り込みへと続き、
執事が少女を発見してびっくりすると、
ボーイフレンドが少女がユダヤ人であることを明かして、
執事が真っ青になる、
という件がテンポ良く軽快に展開されて、
一気に物語世界に引き込まれます。
この辺りは前作でも思いましたが、
一気にオープニングから劇世界に引き込みながら、
人物紹介を兼ねつつ背景も紹介するという、
冨坂さんの台詞は非常に巧みで、
役者さんもリズムに乗せる呼吸が堂に入っています。
ただ、ユダヤ人の民族浄化という深刻な問題を扱っている割には、
ユダヤ人達も死と隣り合わせという緊迫感は全くありませんし、
ゲシュタポの面々もボーイフレンドとその同僚、そして上司を含めて、
皆気の良い人たちで、
ユダヤ人を捕まえることを、
上からの命令なので、
仕方なくやっている、という感じにしか見えません。
オランダはドイツに支配されている筈ですが、
ゲシュタポと町の人とユダヤ人が、
同じ場所で話をしても、
支配と被支配という雰囲気が、
全く感じられません。
主人公のボーイフレンドは、
ドイツの名門の出であるらしく、
ゲシュタポでユダヤ人狩りの仕事をしていながらも、
実際にはユダヤ人も同じ人間であり、
共存するべきだと思っていて、
それを同僚や上司にも平気で話をしています。
仕事は普通にしているのですから、
直接ではないにせよ彼の手によって、
多くのユダヤ人が強制収容され、
背景となる1943年には、
多くが殺害されている筈ですが、
そのことはあまり気に掛ける様子もなく、
助けるべき対象は、
自分のガールフレンドとその周辺のみであるようです。
オープニングの感じでは、
執事が大活躍して次々と危機を突破する、
三谷幸喜的な展開を予測するのですが、
あまりそうした展開にはならず、
ユダヤ人家族は無防備に出歩いてしまうので、
すぐに隠れていることも、
ユダヤ人であることもバレてしまいます。
結局ボーイフレンドは一旦はユダヤ人家族を捕らえておいて、
トラックで輸送中に一緒に脱出し、
うまい具合に逃げ延びる、という展開に落ち着きます。
こんなあまりに能天気で絵空事の展開で良いのでしょうか?
良いと思われる方もいらっしゃると思いますが、
僕はここまで来るとお手上げの感じで、
呆然と舞台を見守るしかありませんでした。
ラストは戦後すぐの1945年になり、
平然と生き延びているボーイフレンドの主人公は、
今後はナチス狩りから逃げている、
かつてのゲシュタポの同僚をかくまっている、
ということが分かって終わります。
このオチも結構問題があると思います。
作者の気持は分からないでもないのですが、
こうしたシンメトリカルな描き方で、
ナチスとユダヤ人を描いてしまうと、
「どっちもどっち」で時代が変われば、
追う側と追われる側も逆転する、
というように理解されてしまうと思います。
両者をある種同列に扱うような感じになるのです。
そういう描き方で良いのでしょうか?
僕にはどうも問題があるように思いました。
ナチスというのはともかく「絶対悪」である訳です。
正直その考え方にも疑問を感じなくはありませんが、
そこに疑義を呈することは、
今の世界では許されないことで、
そこは思考停止しないといけないのです。
しかし、ドラマとしてフィクションとして考えると、
絶対的な善悪が定まっていると、
非常に窮屈になり、
ドラマとしても面白みは、
あまり生まれては来ないのです。
コメディや笑いというのは、
常識的な発想とは違うところに、
1つの妙味があるのですが、
ナチスとユダヤ人という素材を選んだ瞬間から、
作者は突飛な発想は捨てなくてはいけなくなります。
ユダヤ人は全面的な被害者で絶対的な善で、
ナチスは絶対的な悪党であり続けなくてはならないからです。
しかも民族浄化というのは、
歴史上最大の悪であり罪であるので、
それを深刻に描かない訳にはいかなくなります。
その深刻さを笑いに変えることは、
殆ど不可能事のように思えます。
それに挑戦した先駆的な作品としては、
三谷幸喜さんの「国民の映画」があります。
この作品はナチスの宣伝大臣であるゲッペルスを主人公に、
ナチスの映画製作をコメディにした、
三谷さんらしい傑作です。
この作品で主に笑いの対象となっているのは、
ナチスは悪いと知りながら、
それに迎合したり、
消極的にしか反対することをしなかった、
多くの映画関係者や芸術家の姿です。
ナチスが絶対悪という大枠は崩さず、
ユダヤ人である執事が処刑されるという、
民族浄化を憎む姿勢も描かれています。
この作品を観ると、
三谷さんが如何に慎重に、
「ナチスを主人公にしたコメディ」を、
問題なく成立させるために、
神経を使っているかが分かります。
ただ、矢張り三谷さんの他の作品と比較すると、
この作品は重く、深刻さの強いものになっていることも、
また否めないように思います。
その三谷作品と比較して考えると、
今回の冨坂さんの作品は如何にも無防備で、
軽率で思慮に欠けるように僕には思えます。
(失礼な表現をお許し下さい)
冨坂さんが三谷幸喜さん級の才能を持つ劇作家であることは、
ほぼ間違いがないのですから、
もう少し素材は慎重に選んで欲しかったと思いますし、
その素材の扱いについても、
より繊細さが必要なのではないかと思いました。
これは細かいことですが、
言葉の選択でも「元カレ」とか「セックスレス」など、
絶対に設定当時の風俗には合わない言葉や、
「オットーさん」が「お父さん」のような、
日本語のダジャレなどを使用するセンスも、
日本語で海外を舞台にしたオリジナルの戯曲の「言葉」としては、
その選択に疑問を感じました。
そんな訳で、
今回の作品はそのきわどさに乗れなかったのですが、
次の作品にはまた期待をしたいと思いますし、
今後の活躍が楽しみであることは間違いがありません。
頑張って下さい。
ただ、僕の個人的な意見としては、
この作品は再演したりDVDにしたり、
画像を広く公開したりするようなことは、
あまりしない方が良いのではないかと思いました。
(勿論考えすぎかも知れません)
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
北品川藤クリニックの石原です。
今日は日曜日でクリニックは休診です。
午後からベルリン・フィルの第9に行く予定です。
今年は春にベルリン・フィルの第9で、
秋にはウィーンフィルの第9(行けませんが…)
というびっくりの日程です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
ちょっと三谷幸喜さんを思わせる、
緻密なシチュエーションコメディで、
魅力的な作品を上演している、
冨坂友さんが主宰する劇団、
アガリスクエンターテイメントの新作公演が、
本日まで池袋で上演されています。
この劇団は、
昨年の「紅白旗合戦」が初見で、
舞台の技術的な質には、
問題のある部分もありましたが、
魅力的で緻密な劇作には、
非常に感心しました。
今回は新作ということで楽しみにして出掛けました。
ただ、正直今回は、
重く自由度の少ない素材を、
無理矢理に軽く扱うような劇作の姿勢に、
個人的には疑問を感じて、
後半はとても乗り切れない気分でつらい観劇となりました。
ユダヤ人とナチスの問題を描いてコメディに、
という不可能とも思えるプロットに真っ向から取り組んだ意欲は、
あっぱれなものだとは思うのですが、
もっと無理のない設定で、
楽しいコメディを見せて欲しかったと思いました。
ただ、これを面白いと感じる方も多いと思いますので、
これはもう色々な感想があって良いのだと思います。
以下ネタバレを含む感想です。
今回の作品は第二次世界大戦で、
ドイツ支配下のオランダが舞台で、
アムステルダムで隠し部屋に暮らす、
少女が主人公という、
もろ「アンネの日記」という設定です。
ただ、こちらの少女はもう結婚適齢期で、
かくまわれているボーイフレンドが、
実はゲシュタポの一員という趣向です。
ボーイフレンドは勿論、
自分がゲシュタポであることは隠しているのですが、
そこに少女の家族と、
少女の幼馴染で少女を恋する少年が、
まとめて逃げ込んで来るので、
ユダヤ人をかくまいながら、
自分がゲシュタポであることも隠すという、
二重の困難に直面したボーイフレンドが、
忠実な執事と強力しながら、
その危機をいかにして脱出するか、
と言う物語です。
オープニングはドイツの執事が、
ゲシュタポのボーイフレンドの下宿を訪れる、
という場面から始まりますが、
最初に「隠れて!」という台詞で、
少女が隠し部屋に隠れるところから、
すぐに執事の入り込みへと続き、
執事が少女を発見してびっくりすると、
ボーイフレンドが少女がユダヤ人であることを明かして、
執事が真っ青になる、
という件がテンポ良く軽快に展開されて、
一気に物語世界に引き込まれます。
この辺りは前作でも思いましたが、
一気にオープニングから劇世界に引き込みながら、
人物紹介を兼ねつつ背景も紹介するという、
冨坂さんの台詞は非常に巧みで、
役者さんもリズムに乗せる呼吸が堂に入っています。
ただ、ユダヤ人の民族浄化という深刻な問題を扱っている割には、
ユダヤ人達も死と隣り合わせという緊迫感は全くありませんし、
ゲシュタポの面々もボーイフレンドとその同僚、そして上司を含めて、
皆気の良い人たちで、
ユダヤ人を捕まえることを、
上からの命令なので、
仕方なくやっている、という感じにしか見えません。
オランダはドイツに支配されている筈ですが、
ゲシュタポと町の人とユダヤ人が、
同じ場所で話をしても、
支配と被支配という雰囲気が、
全く感じられません。
主人公のボーイフレンドは、
ドイツの名門の出であるらしく、
ゲシュタポでユダヤ人狩りの仕事をしていながらも、
実際にはユダヤ人も同じ人間であり、
共存するべきだと思っていて、
それを同僚や上司にも平気で話をしています。
仕事は普通にしているのですから、
直接ではないにせよ彼の手によって、
多くのユダヤ人が強制収容され、
背景となる1943年には、
多くが殺害されている筈ですが、
そのことはあまり気に掛ける様子もなく、
助けるべき対象は、
自分のガールフレンドとその周辺のみであるようです。
オープニングの感じでは、
執事が大活躍して次々と危機を突破する、
三谷幸喜的な展開を予測するのですが、
あまりそうした展開にはならず、
ユダヤ人家族は無防備に出歩いてしまうので、
すぐに隠れていることも、
ユダヤ人であることもバレてしまいます。
結局ボーイフレンドは一旦はユダヤ人家族を捕らえておいて、
トラックで輸送中に一緒に脱出し、
うまい具合に逃げ延びる、という展開に落ち着きます。
こんなあまりに能天気で絵空事の展開で良いのでしょうか?
良いと思われる方もいらっしゃると思いますが、
僕はここまで来るとお手上げの感じで、
呆然と舞台を見守るしかありませんでした。
ラストは戦後すぐの1945年になり、
平然と生き延びているボーイフレンドの主人公は、
今後はナチス狩りから逃げている、
かつてのゲシュタポの同僚をかくまっている、
ということが分かって終わります。
このオチも結構問題があると思います。
作者の気持は分からないでもないのですが、
こうしたシンメトリカルな描き方で、
ナチスとユダヤ人を描いてしまうと、
「どっちもどっち」で時代が変われば、
追う側と追われる側も逆転する、
というように理解されてしまうと思います。
両者をある種同列に扱うような感じになるのです。
そういう描き方で良いのでしょうか?
僕にはどうも問題があるように思いました。
ナチスというのはともかく「絶対悪」である訳です。
正直その考え方にも疑問を感じなくはありませんが、
そこに疑義を呈することは、
今の世界では許されないことで、
そこは思考停止しないといけないのです。
しかし、ドラマとしてフィクションとして考えると、
絶対的な善悪が定まっていると、
非常に窮屈になり、
ドラマとしても面白みは、
あまり生まれては来ないのです。
コメディや笑いというのは、
常識的な発想とは違うところに、
1つの妙味があるのですが、
ナチスとユダヤ人という素材を選んだ瞬間から、
作者は突飛な発想は捨てなくてはいけなくなります。
ユダヤ人は全面的な被害者で絶対的な善で、
ナチスは絶対的な悪党であり続けなくてはならないからです。
しかも民族浄化というのは、
歴史上最大の悪であり罪であるので、
それを深刻に描かない訳にはいかなくなります。
その深刻さを笑いに変えることは、
殆ど不可能事のように思えます。
それに挑戦した先駆的な作品としては、
三谷幸喜さんの「国民の映画」があります。
この作品はナチスの宣伝大臣であるゲッペルスを主人公に、
ナチスの映画製作をコメディにした、
三谷さんらしい傑作です。
この作品で主に笑いの対象となっているのは、
ナチスは悪いと知りながら、
それに迎合したり、
消極的にしか反対することをしなかった、
多くの映画関係者や芸術家の姿です。
ナチスが絶対悪という大枠は崩さず、
ユダヤ人である執事が処刑されるという、
民族浄化を憎む姿勢も描かれています。
この作品を観ると、
三谷さんが如何に慎重に、
「ナチスを主人公にしたコメディ」を、
問題なく成立させるために、
神経を使っているかが分かります。
ただ、矢張り三谷さんの他の作品と比較すると、
この作品は重く、深刻さの強いものになっていることも、
また否めないように思います。
その三谷作品と比較して考えると、
今回の冨坂さんの作品は如何にも無防備で、
軽率で思慮に欠けるように僕には思えます。
(失礼な表現をお許し下さい)
冨坂さんが三谷幸喜さん級の才能を持つ劇作家であることは、
ほぼ間違いがないのですから、
もう少し素材は慎重に選んで欲しかったと思いますし、
その素材の扱いについても、
より繊細さが必要なのではないかと思いました。
これは細かいことですが、
言葉の選択でも「元カレ」とか「セックスレス」など、
絶対に設定当時の風俗には合わない言葉や、
「オットーさん」が「お父さん」のような、
日本語のダジャレなどを使用するセンスも、
日本語で海外を舞台にしたオリジナルの戯曲の「言葉」としては、
その選択に疑問を感じました。
そんな訳で、
今回の作品はそのきわどさに乗れなかったのですが、
次の作品にはまた期待をしたいと思いますし、
今後の活躍が楽しみであることは間違いがありません。
頑張って下さい。
ただ、僕の個人的な意見としては、
この作品は再演したりDVDにしたり、
画像を広く公開したりするようなことは、
あまりしない方が良いのではないかと思いました。
(勿論考えすぎかも知れません)
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2016-05-15 11:24
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