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日本のアングラ(その13) [フィクション]

戯曲というのは、小説と同じように見えて、
実際には本質的にかなり違った部分がある文学形式だ。

戯曲と言う形式の方が、
小説という形式より歴史も古く、
全ての文学の母のような存在だ。

そもそも人間の会話や心情と言ったものは、
その人物の口から発せられる言葉であるからこそ、
他人の心を揺さぶる性質のもので、
ただの会話や出来事を文字で記録しただけのものを、
他人が読むだけで良しとする「小説」などというのは、
藝術としてはある種の邪道であるようにも思える。

しかし、現在では、
上演されなければそれ自体では完成しているとは言えない戯曲より、
単独の作品として完成している小説の方が、
上に見られることが一般的なのだ。

小説と戯曲には別個の作法が存在している。

小説家が書いた戯曲は、
その多くが実際に上演してみると非常に退屈なものであることが多く、
戯曲として読む分には面白い。

本職の劇作家の書いた戯曲は、
そのまま小説のように読むと、
流れがなくて退屈で読み難いことが多く、
実際に読み合わせや立ち稽古をして、
初めてその面白さが分かる、ということが多い。

劇作家は実際の舞台をイメージして、
戯曲を書いている。
舞台の間合いや空間があるからこそ、
その言葉は生きる。
だから、その骨組である会話とト書きだけを活字で並べても、
それを読む側に舞台をイメージする力がないと、
その戯曲の良さは伝わらない。

その一方で小説家の書く戯曲は、
結局「会話だけの小説」であることが多く、
小説をその作者が書いている時と、
同じ空間しかイメージされていないので、
読む分には面白くても、
実際に舞台で上演すると、
却って当初の言葉のリズムや空気感を失ってしまうことが多い。

従って、多くの小説家が戯曲を書き、
多くの劇作家が小説を書いてはいるけれど、
その両方で傑作をものした作家は、
極めて少数しか存在していないのだ。

アングラや小劇場の戯曲というのは、
更にそうした傾向が強く、
戯曲の中でもかなり特殊な分野ということが言える。

唐先生の戯曲は役者への完全な当て書きで、
大久保鷹や李礼仙が言うことを前提にして、
その台詞は書かれている。
従って、その役者を知らなければ、
活字化された台詞を読んでも、
そのイメージは作者の意図通りには伝わらない。
ト書きには、突然大きなコウモリが現れてヒロインを浚い、
花道の上空を飛んで行く、というような、
とても上演不可能なようなことが書いてある。

しかし、実際に状況劇場の舞台を目にすれば、
そのト書き通りのことが、
観客全員のある種の共同幻想としては成立していることが分かる。

唐先生の戯曲は従って、
それを演じる個々の生身の役者と、
奇想天外な舞台装置、
そして共同幻想を共有する同時代の観客の、
その全てが揃って初めて成立するものなのだ。

戯曲にあるのはその骨組みに過ぎず、
それを読み物としての戯曲と比較して、
良いとか悪いとかと議論することは、
そもそもナンセンスなことだと言っても、
言い過ぎではないように思う。

寺山修司も同じような意味合いのことを、
「地球空洞説」の戯曲の単行本のまえがきで記している。

この戯曲集では、
実際に上演された公演の録音が、
そのまま忠実に再現されているのだが、
そのまえがきに、
ここには闇も煙幕も、
J・Aシーザーの音楽もない、
と書かれている。

これも今述べたことと同じ意味であることは、
お分かり頂けるのではないかと思う。

戯曲という形式自体を否定する、と言うあり方も、
アングラから小劇場の方法論の中では、
多く見られた考え方だ。

鈴木忠志は古典などからの引用を再構成した、
コラージュのような作品を上演した。

つかこうへいはある時期から戯曲を本にすることを止め、
口建てという古典的な手法で、
喋った言葉をその場でそのまま台詞化するという、
それまでにあまり例のない試みを始めた。

稽古場でその場で作品を作るという方法は、
一種の即興劇の手法として、
一部の小劇場の得意技の1つとなった。

僕は何度かオリジナルの戯曲を書いた。

最初に書いた戯曲は、
寺山修司の天井桟敷の芝居を、
初めて観た時の興奮がそのまま書かせたような代物で、
アングラの物真似という印象の強いものだった。
これは上演機会のないまま、
今も自宅の机の引き出しの中に埋もれている。

その次が1年前の研究会公演で、
この時は初めて役者に合わせて台詞を作る試みをした。
何となくつかこうへいみたいな気分で、
シチュエーションだけ設定して、
稽古場で芝居を作ろうと思ったのだ。
しかし、慣れないことはするものではない。
当日まで台本が完成せず、
本当にひやひやものの上演だった。
本公演ではとても許されることではない。

そして、前述のように冬公演では、
「ふくろう模様の皿」を元にしたオリジナルを書いて上演した。
これまでの3作の中では、
最もまとまった作品ではあったと思う。

ただ、僕はどうしても保守的な作風で、
元の物語があると、
それを優先して作品を書いてしまうので、
飛躍のない面白みのないものになってしまう。
出鱈目な話でも力技で形にしてしまう、
西谷の戯曲とは正反対で、
心ではアングラを強く志向していながら、
実践が伴わないというジレンマを抱えていた。

1986年の新人公演のオリジナルの台本を書いた桐原君は、
僕の1年後輩で経済学部の学生だった。
彼はアニメヲタクで、
ゲームの世界を舞台にした戯曲を書いた。
北村想にちょっと似ていたが、
アニメやゲームの知識は豊富だったので、
それとはまた違った個性があった。

しかも稽古初日にはしっかり台本は完成していて、
読み合わせがすぐに出来たのにも感心した。

内容は架空の都市で、
悪の秘密結社に攫われた少女を救い出そうと、
3流大学の学生コンビが活躍する。
仰々しい悪の秘密結社の首領や、
その部下の怪人、
謎の美女や謎の助っ人中国人などが賑々しく登場し、
途中で実はその世界は、
発売間近で頓挫したゲームであったことが分かる。
最後には実際には完成しなかったゲームを、
幻想の世界で完成させようと、
敵味方を問わずに奮闘するエンディングが待っている。

「感動でしょ」
と読み合わせの後で桐原君は、
いつものようにボソっと言った。

アングラ命の僕には、
とてもそう思えるような内容ではなかったけれど、
立場上悪いとも言えず、
ただ黙って頷いただけだった。
(次項に続く)
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