TRASHMASTERS「砂の骨」 [演劇]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日はもう1つ演劇の話題です。
次はこちら。
社会派の骨太の芝居を上演し続けている、
TRASHMASTERSの新作が、
明日まで三軒茶屋のシアタートラムで上演されています。
この劇団は強烈な1つのスタイルを確立して、
福島原発事故や尖閣問題を扱った諸作は、
これまでにない戦慄的な観劇体験を与えてくれたのですが、
昨年上演した本公演の2作品は、
全くの架空の社会を舞台として、
それまでの演出やスタイルも大きく変えていて、
かなり大胆な方針の変更を行ない、
それが結果的には、
あまり成果には結び付かなかったように思います。
昨年の2つの作品も、
戦争と人間との関わりや権力と藝術との関わりなど、
今の日本に繋がるテーマを扱ってはいたのですが、
架空世界というフィルターを通した結果、
どうしてもそれまでの作品のような、
生々しい迫力には乏しく、
それに代わるような魅力を、
見い出せていないように感じました。
今回の新作は、
再びその傾向を変えていて、
完全に今の日本に舞台を設定し、
労働と貧困の問題をテーマに据えて、
昔のアジテーション演劇のような作品、
「さあ、若き労働者よ立ち上がれ!」的な作品に、
かなり真正面から取り組んでいます。
以下ネタバレを含む感想です。
舞台は現代の日本です。
外食産業のブラック企業で、
心身をすり減らしながら仕事をしていた主人公の若者は、
自宅の隣の公園のホームレスの若者の、
社会変革への強い意志と熱意に感化され、
会社に組合を作って、
労働条件の改善に乗り出します。
そこに現代日本の幾つかの挿話が絡み、
物語は展開されます。
ピケティの本が登場して、
それについてのディスカッションもある辺りは、
何かあまりに時事ネタの集積のようで、
ちょっと気恥ずかしい感じもあるのですが、
ブラック企業の人間関係を介して、
ワーキングプアの問題から格差社会、
そこに福島原発事故後にボランティアで知り合った夫婦が、
避難からのすれ違いから離婚の危機にあるとか、
ホームレスの「先生」と呼ばれる謎の男が、
官僚の子弟を拉致して脅迫をするなど、
テロリズムへの予兆を感じさせるエピソードを付け加えるなどして、
トータルに今の日本を記述しようとする試みには、
スケールの大きさを感じます。
ただ、全てがステレオタイプな感じは否めないのと、
若者が社会を根底から変革する、というような、
非常に楽観的な革命幻想が、
かなり能天気な感じで語られる辺りは、
過去の亡霊が化粧直しをして蘇って来たような感じもあります。
これまでの中津留さんの作品を観て来た者としては、
本当に今回のような革命思想が、
そのまま実現するような世の中を、
中津留さんが真実希求しているとは、
思えないような気もします。
今回かなり演技陣も入れ替わっていて、
若手のエネルギーに託したような部分は面白いのですが、
絶叫の芝居が矢鱈と多く、
それが技術的に稚拙なので、
「絶叫の藝」にはなっていない、
と言う点は不満に感じました。
絶叫はアングラ芝居の演技の方法論の1つですが、
もっと一定のリズムを持って、
台詞が聞き取れるような絶叫でなければその意味がないので、
今回の稚拙な絶叫の乱用は、
僕には聞いていてかなり苦痛でした。
端的に言えば絶叫に「音楽」がないのです。
「このレベルの大声なら、普通に喋ろうよ」
というのが個人的な意見です。
この劇団には、
カゴシマジローさんという、
理詰めの台詞を冷酷にしゃべらせたら一級品、
と言う役者さんもいるので、
もっと語りの技術は色々であって良いと思いますし、
仮にアングラ風の絶叫を使いたいのであれば、
もっと訓練が必要だと思います。
装置は動きはないのですが、
ホームレスが集う公園と、
フェンスの向こうの空間を一緒にリアルに構成した、
なかなか見事なもので、
主人公の青年のアパートの部屋や、
ブラックの外食産業の社内なども、
同じ公園の地べたで表現する、
という趣向も面白いと思います。
単なる思い付きではなく、
一見文化的で守られた暮らしをしているつもりでも、
そこにはホームレスの公園と同じ「荒野」しかない、
という事実を、
見事に表現しているからです。
ただ、真実を語ると頭上からサラサラと砂が降って来る、
というようなギミックを含めて、
如何にもアングラ興隆期の革命幻想演劇や、
バブルの頃にそれを否定して骨太な作品を連発した、
燐光群の諸作を彷彿とさせる趣向は、
オリジナリティという点ではあまりないように思います。
本当に「今」を語るには、
こうした文法が最善なのでしょうか?
今の社会に満足したり、
今を楽しんだりする人間が、
この物語にはただの1人も登場しないのですが、
それなりに今に満足していて、
それが変わることを望まない人間が一定多数いるからこそ、
一見動きのない今の社会があるという事実にも、
もっと目を向けるべきのように感じました。
総じてこうしたドラマを作る人達は、
わざわざ片方の目を瞑って、
もう一方の目で見える物のみを、
テーマに選んでいるような気がします。
ただ、僕はこの作品を否定するつもりはなく、
古めかしい革命演劇も嫌いではありません。
少なくとも昨年のTRASHMASTERSの作品と比べれば、
僕は数段今回の作品に魅力を感じます。
しかし、これが完成形ということはなく、
中津留さんが過去の革命演劇をお手本にして、
一種の「習作」を作ったのだと理解しているので、
次作においては、
今回の借りてきた猫のような毛皮を脱いで、
もっと赤裸々な恰好で、
今の奇態な現実を、
暴力的に虚構化するような猛劇を期待したいと思います。
頑張って下さい。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日はもう1つ演劇の話題です。
次はこちら。
社会派の骨太の芝居を上演し続けている、
TRASHMASTERSの新作が、
明日まで三軒茶屋のシアタートラムで上演されています。
この劇団は強烈な1つのスタイルを確立して、
福島原発事故や尖閣問題を扱った諸作は、
これまでにない戦慄的な観劇体験を与えてくれたのですが、
昨年上演した本公演の2作品は、
全くの架空の社会を舞台として、
それまでの演出やスタイルも大きく変えていて、
かなり大胆な方針の変更を行ない、
それが結果的には、
あまり成果には結び付かなかったように思います。
昨年の2つの作品も、
戦争と人間との関わりや権力と藝術との関わりなど、
今の日本に繋がるテーマを扱ってはいたのですが、
架空世界というフィルターを通した結果、
どうしてもそれまでの作品のような、
生々しい迫力には乏しく、
それに代わるような魅力を、
見い出せていないように感じました。
今回の新作は、
再びその傾向を変えていて、
完全に今の日本に舞台を設定し、
労働と貧困の問題をテーマに据えて、
昔のアジテーション演劇のような作品、
「さあ、若き労働者よ立ち上がれ!」的な作品に、
かなり真正面から取り組んでいます。
以下ネタバレを含む感想です。
舞台は現代の日本です。
外食産業のブラック企業で、
心身をすり減らしながら仕事をしていた主人公の若者は、
自宅の隣の公園のホームレスの若者の、
社会変革への強い意志と熱意に感化され、
会社に組合を作って、
労働条件の改善に乗り出します。
そこに現代日本の幾つかの挿話が絡み、
物語は展開されます。
ピケティの本が登場して、
それについてのディスカッションもある辺りは、
何かあまりに時事ネタの集積のようで、
ちょっと気恥ずかしい感じもあるのですが、
ブラック企業の人間関係を介して、
ワーキングプアの問題から格差社会、
そこに福島原発事故後にボランティアで知り合った夫婦が、
避難からのすれ違いから離婚の危機にあるとか、
ホームレスの「先生」と呼ばれる謎の男が、
官僚の子弟を拉致して脅迫をするなど、
テロリズムへの予兆を感じさせるエピソードを付け加えるなどして、
トータルに今の日本を記述しようとする試みには、
スケールの大きさを感じます。
ただ、全てがステレオタイプな感じは否めないのと、
若者が社会を根底から変革する、というような、
非常に楽観的な革命幻想が、
かなり能天気な感じで語られる辺りは、
過去の亡霊が化粧直しをして蘇って来たような感じもあります。
これまでの中津留さんの作品を観て来た者としては、
本当に今回のような革命思想が、
そのまま実現するような世の中を、
中津留さんが真実希求しているとは、
思えないような気もします。
今回かなり演技陣も入れ替わっていて、
若手のエネルギーに託したような部分は面白いのですが、
絶叫の芝居が矢鱈と多く、
それが技術的に稚拙なので、
「絶叫の藝」にはなっていない、
と言う点は不満に感じました。
絶叫はアングラ芝居の演技の方法論の1つですが、
もっと一定のリズムを持って、
台詞が聞き取れるような絶叫でなければその意味がないので、
今回の稚拙な絶叫の乱用は、
僕には聞いていてかなり苦痛でした。
端的に言えば絶叫に「音楽」がないのです。
「このレベルの大声なら、普通に喋ろうよ」
というのが個人的な意見です。
この劇団には、
カゴシマジローさんという、
理詰めの台詞を冷酷にしゃべらせたら一級品、
と言う役者さんもいるので、
もっと語りの技術は色々であって良いと思いますし、
仮にアングラ風の絶叫を使いたいのであれば、
もっと訓練が必要だと思います。
装置は動きはないのですが、
ホームレスが集う公園と、
フェンスの向こうの空間を一緒にリアルに構成した、
なかなか見事なもので、
主人公の青年のアパートの部屋や、
ブラックの外食産業の社内なども、
同じ公園の地べたで表現する、
という趣向も面白いと思います。
単なる思い付きではなく、
一見文化的で守られた暮らしをしているつもりでも、
そこにはホームレスの公園と同じ「荒野」しかない、
という事実を、
見事に表現しているからです。
ただ、真実を語ると頭上からサラサラと砂が降って来る、
というようなギミックを含めて、
如何にもアングラ興隆期の革命幻想演劇や、
バブルの頃にそれを否定して骨太な作品を連発した、
燐光群の諸作を彷彿とさせる趣向は、
オリジナリティという点ではあまりないように思います。
本当に「今」を語るには、
こうした文法が最善なのでしょうか?
今の社会に満足したり、
今を楽しんだりする人間が、
この物語にはただの1人も登場しないのですが、
それなりに今に満足していて、
それが変わることを望まない人間が一定多数いるからこそ、
一見動きのない今の社会があるという事実にも、
もっと目を向けるべきのように感じました。
総じてこうしたドラマを作る人達は、
わざわざ片方の目を瞑って、
もう一方の目で見える物のみを、
テーマに選んでいるような気がします。
ただ、僕はこの作品を否定するつもりはなく、
古めかしい革命演劇も嫌いではありません。
少なくとも昨年のTRASHMASTERSの作品と比べれば、
僕は数段今回の作品に魅力を感じます。
しかし、これが完成形ということはなく、
中津留さんが過去の革命演劇をお手本にして、
一種の「習作」を作ったのだと理解しているので、
次作においては、
今回の借りてきた猫のような毛皮を脱いで、
もっと赤裸々な恰好で、
今の奇態な現実を、
暴力的に虚構化するような猛劇を期待したいと思います。
頑張って下さい。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2015-03-14 08:04
nice!(38)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0