ヴィヴィカ・ジュノーの現在 [コロラトゥーラ]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は2つ目の更新でまた趣味の話題です。
バロック・オペラ「メッセニアの神託」で来日した、
ファビオ・ビオンディ率いるバロック・アンサンブル「エウローパ・ガランテ」が、
メゾ・ソプラノの名花ヴィヴィカ・ジュノーをゲストに迎えて、
東京では1日のみのリサイタルを行ないました。
それがこちら。
ヴィヴィカ・ジュノーはアラスカ出身のメゾ・ソプラノで、
アジリタという装飾歌唱を、
物凄い速さで披露する超絶技巧がトレードマークです。
その人間離れしたようにも思える見事な妙技を、
2006年にはバロック・オペラ「バヤゼット」で披露してくれました。
しかし、最近はあまり活躍の噂を聞きません。
それが久しぶりに今回、
「バヤゼット」と同じ「エウローパ・ガランテ」が演奏するオペラ、
「メッセニアの神託」の日本初演に合わせて来日し、
オペラに出演すると共に、
「エウローパ・ガランテ」のリサイタルのゲストとしても出演することになりました。
前回の記事に書きましたように、
「メッセニアの神託」でのジュノーは、
アジリタは殆ど披露せず、
どちらかと言うと演技に寄り添うような歌唱で、
役柄の要素が大きいのですが、
正直物足りないものを感じさせました。
また、声にどうも伸びがなく、
もうかつてのような超絶技巧を、
披露することは出来ないのではないか、
という危惧を感じさせました。
実際のところはどうなのでしょうか?
それが一番知りたくてリサイタルに出掛けました。
ジュノーは4曲を披露し、
そのうちの1曲は「メッセニアの神託」の中のアリアで、
もう1曲はスターバト・マーテルでした。
そして、残りの2曲が、
かつて得意とした超絶技巧のアジリタを含む、
バロック・オペラのアリアです。
ジュノーは明らかに緊張していて、
アリアの前に一旦舞台袖に引っ込むと、
そこで発声練習をしているのが、
客席にまで聴こえて来ます。
そして、一向に出て来ないので、
ビオンディさんが迎えに袖に入り、
それからまたしばらくは出て来ませんでした。
久しぶりに歌うので、
歌い切れるか不安なのではないかしら、
とこちらの方も不安になります。
漸く出て来たジュノーは、
客席よりむしろ演奏陣を気にしていて、
そちらに向かって何度も頭を下げます。
そして、意を決したように歌い始めました。
彼女はそうして2曲の超絶技巧のアリアを歌い切り、
僕は少なくともここ数年では、
一番その歌に感銘を受けました。
何と言うか、それは本当にギリギリの歌で、
歌えるかどうかのスレスレのところで、
まさに神業的に踏み止まったような歌唱でした。
かつての彼女は身体の力を抜いた棒立ちで、
何か平然とした様子で超難易度のアジリタを歌っていました。
余裕綽々といった感じがありました。
しかし、今回の彼女は、
足を踏ん張って中腰で舞台に立ち、
歌う前には何度もビオンディさんを縋るように見詰めながら、
なりふり構わずに歌うという印象でした。
声は正直2006年頃の半分も出ていない、
といった感じでしたし、
アジリタの精度も速さも、
かつてには遠く及びませんでした。
特にところどころで急に低音に行くところなどは、
声が追い付かずに、ぶら下がるような感じになっていました。
しかし、その歌から受ける感銘は、
むしろ2006年の歌唱に部分的には勝るものがありました。
歌は矢張り技巧ではなく、
それを超えた何かです。
かつて歌の女神の寵愛を受けていた彼女は、
今肉体の衰えと共に、
その寵愛を外れようとしているのですが、
今回の舞台において、
かつての女神の寵愛を受けた曲を敢えて選び、
本当に自分がもう寵愛を外れたのかどうか、
もう昔に戻ることは出来ないのかどうかを、
自らに刃のように突き付けたのです。
その覚悟を見た歌の女神は、
そこに人間に出来得るギリギリの、
熟れた果実が落ちる寸前に持つ甘味のような、
豊穣な歌の世界を与えたのではないでしょうか。
今回初めて彼女の生の歌声を聴き、
超絶技巧のように感じられた方には是非申し上げたいのですが、
彼女の昔の歌はこんなレベルのものではなく、
もっと遥かに高い山頂に、
燦然と輝く大輪の花であったのですが、
それでもその花の輝き以上のものが、
今回の彼女のある種「白鳥の歌」の如き歌唱には、
間違いなく籠っていたと思うのです。
2004年に聴いた初めての来日のデセイ様の歌にも、
こうした輝きが確かにあったのですが、
藝術というのはまさにこうしたもので、
出せる筈のない声が出て、
聴こえない筈の音が確かに聴こえる時、
その単なる肉体を超えた何かの強く希求する意思のようなものが、
全ての人に感銘を与えるのだと思います。
客席はガラガラで企画としては失敗でした。
日本のマニアの移り気さには嫌になります。
大手の招聘会社はこうした時には、
タダ券を撒いたりして帳尻を合わせるのですが、
力のないところだとこうした惨状になります。
僕はジュノーが聴けて幸せでしたが、
企画としては結果論として、
リサイタルは上演されない方がましでした。
オペラは満席でしたから、
その方が、気持ち良く帰国して頂けたと思います。
こんな客席ではジュノーの来日も、
ビオンディさんの来日も、
多分もうないと思います。
それでは次に続きます。
次は演劇です。
六号通り診療所の石原です。
今日は2つ目の更新でまた趣味の話題です。
バロック・オペラ「メッセニアの神託」で来日した、
ファビオ・ビオンディ率いるバロック・アンサンブル「エウローパ・ガランテ」が、
メゾ・ソプラノの名花ヴィヴィカ・ジュノーをゲストに迎えて、
東京では1日のみのリサイタルを行ないました。
それがこちら。
ヴィヴィカ・ジュノーはアラスカ出身のメゾ・ソプラノで、
アジリタという装飾歌唱を、
物凄い速さで披露する超絶技巧がトレードマークです。
その人間離れしたようにも思える見事な妙技を、
2006年にはバロック・オペラ「バヤゼット」で披露してくれました。
しかし、最近はあまり活躍の噂を聞きません。
それが久しぶりに今回、
「バヤゼット」と同じ「エウローパ・ガランテ」が演奏するオペラ、
「メッセニアの神託」の日本初演に合わせて来日し、
オペラに出演すると共に、
「エウローパ・ガランテ」のリサイタルのゲストとしても出演することになりました。
前回の記事に書きましたように、
「メッセニアの神託」でのジュノーは、
アジリタは殆ど披露せず、
どちらかと言うと演技に寄り添うような歌唱で、
役柄の要素が大きいのですが、
正直物足りないものを感じさせました。
また、声にどうも伸びがなく、
もうかつてのような超絶技巧を、
披露することは出来ないのではないか、
という危惧を感じさせました。
実際のところはどうなのでしょうか?
それが一番知りたくてリサイタルに出掛けました。
ジュノーは4曲を披露し、
そのうちの1曲は「メッセニアの神託」の中のアリアで、
もう1曲はスターバト・マーテルでした。
そして、残りの2曲が、
かつて得意とした超絶技巧のアジリタを含む、
バロック・オペラのアリアです。
ジュノーは明らかに緊張していて、
アリアの前に一旦舞台袖に引っ込むと、
そこで発声練習をしているのが、
客席にまで聴こえて来ます。
そして、一向に出て来ないので、
ビオンディさんが迎えに袖に入り、
それからまたしばらくは出て来ませんでした。
久しぶりに歌うので、
歌い切れるか不安なのではないかしら、
とこちらの方も不安になります。
漸く出て来たジュノーは、
客席よりむしろ演奏陣を気にしていて、
そちらに向かって何度も頭を下げます。
そして、意を決したように歌い始めました。
彼女はそうして2曲の超絶技巧のアリアを歌い切り、
僕は少なくともここ数年では、
一番その歌に感銘を受けました。
何と言うか、それは本当にギリギリの歌で、
歌えるかどうかのスレスレのところで、
まさに神業的に踏み止まったような歌唱でした。
かつての彼女は身体の力を抜いた棒立ちで、
何か平然とした様子で超難易度のアジリタを歌っていました。
余裕綽々といった感じがありました。
しかし、今回の彼女は、
足を踏ん張って中腰で舞台に立ち、
歌う前には何度もビオンディさんを縋るように見詰めながら、
なりふり構わずに歌うという印象でした。
声は正直2006年頃の半分も出ていない、
といった感じでしたし、
アジリタの精度も速さも、
かつてには遠く及びませんでした。
特にところどころで急に低音に行くところなどは、
声が追い付かずに、ぶら下がるような感じになっていました。
しかし、その歌から受ける感銘は、
むしろ2006年の歌唱に部分的には勝るものがありました。
歌は矢張り技巧ではなく、
それを超えた何かです。
かつて歌の女神の寵愛を受けていた彼女は、
今肉体の衰えと共に、
その寵愛を外れようとしているのですが、
今回の舞台において、
かつての女神の寵愛を受けた曲を敢えて選び、
本当に自分がもう寵愛を外れたのかどうか、
もう昔に戻ることは出来ないのかどうかを、
自らに刃のように突き付けたのです。
その覚悟を見た歌の女神は、
そこに人間に出来得るギリギリの、
熟れた果実が落ちる寸前に持つ甘味のような、
豊穣な歌の世界を与えたのではないでしょうか。
今回初めて彼女の生の歌声を聴き、
超絶技巧のように感じられた方には是非申し上げたいのですが、
彼女の昔の歌はこんなレベルのものではなく、
もっと遥かに高い山頂に、
燦然と輝く大輪の花であったのですが、
それでもその花の輝き以上のものが、
今回の彼女のある種「白鳥の歌」の如き歌唱には、
間違いなく籠っていたと思うのです。
2004年に聴いた初めての来日のデセイ様の歌にも、
こうした輝きが確かにあったのですが、
藝術というのはまさにこうしたもので、
出せる筈のない声が出て、
聴こえない筈の音が確かに聴こえる時、
その単なる肉体を超えた何かの強く希求する意思のようなものが、
全ての人に感銘を与えるのだと思います。
客席はガラガラで企画としては失敗でした。
日本のマニアの移り気さには嫌になります。
大手の招聘会社はこうした時には、
タダ券を撒いたりして帳尻を合わせるのですが、
力のないところだとこうした惨状になります。
僕はジュノーが聴けて幸せでしたが、
企画としては結果論として、
リサイタルは上演されない方がましでした。
オペラは満席でしたから、
その方が、気持ち良く帰国して頂けたと思います。
こんな客席ではジュノーの来日も、
ビオンディさんの来日も、
多分もうないと思います。
それでは次に続きます。
次は演劇です。
2015-03-07 08:02
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