日本のアングラ(その6) [フィクション]
加奈子は小さな右手を持っていた。
両手を出して比較すると、
明らかに左手の方が大きい。
それもかなりの違いであり、
左手で拳に握った右手を掴むと、
右手はすっぽりと左手に覆われて、
そこにはもう何もないように見えた。
それは娘と母親がじゃれあっている風景を、
カメラがクローズアップで切り取ったようなフォルムだった。
そう思ってよくよく加奈子の姿を見れば、
手ほど大きな差はなかったけれど、
右半身と左半身の大きさにも微妙な差異があり、
顔も少し左が大きく、
目や耳ばかりでなく、
骨格にも微妙な歪みのようなものがあった。
手の仕草を母と娘と表現したのには理由があって、
加奈子の姿は大人と子供の同じ2人の女性を、
真ん中から2つに割って、
そのまま繋ぎ合わせたように見えたのだ。
勿論その差異は、
手の大きさほど明確なものではなく、
よくよく見ればそう見えないものでもない、
というくらいの性質のものだ。
ただ、曲がり角に立って、
壁から半身ずつ姿を見せると、
右半身には少女の俤があり、
左半身には成熟した女性の俤が確かにあった。
加奈子は両手を並べて出すようなことを、
慎重に避けていたから、
多くの人は加奈子のその秘密には、
気付くことはなかった。
それから記念写真や集合写真と撮る時にも、
加奈子は巧みに体勢を変え、
左半身を少し引くようにしたので、
写真に映った加奈子の姿には、
それほどの違和感はなかった。
写真の時のみならず、
友達と話をする時にも、
加奈子は必ず身体を少し斜めにして、
右をやや前に出すようにしていたし、
座った姿勢の時には、
手をテーブルの上に出すようなことは極力避け、
違和感を感じさせないようにしていた。
そんな訳で彼女の右手の秘密は、
長く密やかに守られていた。
彼女の身体の非対称性から来る違和感には、
気付く人は勿論いたし、
彼女自身その舞台においては、
それを自分の1つの武器として、
利用することすらしていたので、
僕が彼女に会って数ヶ月後には、
その肉体の非対称性の魅力には、
多くの人が気付き、
そこにある種の誘惑すら感じることがあったのだけれど、
右手の秘密に僕が気付くのには、
それから10年後の1995年まで待たなければならなかったのだ。
ちょっと先走り過ぎたかも知れない。
話を戻そう。
僕が加奈子に初めて会ったのは、
大学の劇団の新人勧誘会の時で、
僕は3年生で加奈子が新入生だった。
彼女は人文学部に所属していて、
他の2人の同級生と一緒に勧誘会に参加した。
明らかに他の2人に連れられて来た、
という雰囲気で、
常に他の2人より半歩下がって、
極めて控え目な印象に見えた。
僕は自身華やかな質ではなかったし、
3年で部長ではあったのだけれど、
勧誘自体は後輩に任せていた。
しかし、周囲の喧騒から少し距離を置くようにして、
常にやや顔を俯けている加奈子の雰囲気には、
最初からちょっと惹かれるものがあった。
いつも定期公演の会場にもしている劇団の部室で、
勧誘のための寸劇をした後、
興味のある人はお茶でも飲みに行こうと、
2年生が声が掛けた時、
一緒に来た2人はすぐに参加を表明したけれど、
加奈子は何か思い悩む様子で、
すぐには行くとは言わなかった。
そして、ふいに立ち上がると、
白いワンピース姿で部室の黒い壁の前に立ち、
左手を上に上げるようなポーズを取って、
最初に正面を向き、
それから半身になって、
その左側だけをこちらに見せた。
最初、少女が闇の中に立っていた。
それが、一瞬にして成熟した大人の女性に変わった。
僕は一瞬見たものが信じられなかった。
そして、すぐに辺りを見回したが、
加奈子のことを見ていたのは、
僕1人しかいなかった。
僕と彼女は視線を合わせ、
加奈子は恥ずかしそうな、
それでいて共犯者めいた笑みを漏らすと、
すぐに僕から視線を逸らし、
黒い壁から離れると、
グループの2人のところに戻った。
そして、2人と一緒に、お茶を飲みに行くことが決まり、
その数日後には彼女だけが、
劇団に入ることを決めたのだった。
彼女が稀代のアングラ女優に変貌することを、
その時点で予測した劇団員は誰もいなかった。
(つづく)
両手を出して比較すると、
明らかに左手の方が大きい。
それもかなりの違いであり、
左手で拳に握った右手を掴むと、
右手はすっぽりと左手に覆われて、
そこにはもう何もないように見えた。
それは娘と母親がじゃれあっている風景を、
カメラがクローズアップで切り取ったようなフォルムだった。
そう思ってよくよく加奈子の姿を見れば、
手ほど大きな差はなかったけれど、
右半身と左半身の大きさにも微妙な差異があり、
顔も少し左が大きく、
目や耳ばかりでなく、
骨格にも微妙な歪みのようなものがあった。
手の仕草を母と娘と表現したのには理由があって、
加奈子の姿は大人と子供の同じ2人の女性を、
真ん中から2つに割って、
そのまま繋ぎ合わせたように見えたのだ。
勿論その差異は、
手の大きさほど明確なものではなく、
よくよく見ればそう見えないものでもない、
というくらいの性質のものだ。
ただ、曲がり角に立って、
壁から半身ずつ姿を見せると、
右半身には少女の俤があり、
左半身には成熟した女性の俤が確かにあった。
加奈子は両手を並べて出すようなことを、
慎重に避けていたから、
多くの人は加奈子のその秘密には、
気付くことはなかった。
それから記念写真や集合写真と撮る時にも、
加奈子は巧みに体勢を変え、
左半身を少し引くようにしたので、
写真に映った加奈子の姿には、
それほどの違和感はなかった。
写真の時のみならず、
友達と話をする時にも、
加奈子は必ず身体を少し斜めにして、
右をやや前に出すようにしていたし、
座った姿勢の時には、
手をテーブルの上に出すようなことは極力避け、
違和感を感じさせないようにしていた。
そんな訳で彼女の右手の秘密は、
長く密やかに守られていた。
彼女の身体の非対称性から来る違和感には、
気付く人は勿論いたし、
彼女自身その舞台においては、
それを自分の1つの武器として、
利用することすらしていたので、
僕が彼女に会って数ヶ月後には、
その肉体の非対称性の魅力には、
多くの人が気付き、
そこにある種の誘惑すら感じることがあったのだけれど、
右手の秘密に僕が気付くのには、
それから10年後の1995年まで待たなければならなかったのだ。
ちょっと先走り過ぎたかも知れない。
話を戻そう。
僕が加奈子に初めて会ったのは、
大学の劇団の新人勧誘会の時で、
僕は3年生で加奈子が新入生だった。
彼女は人文学部に所属していて、
他の2人の同級生と一緒に勧誘会に参加した。
明らかに他の2人に連れられて来た、
という雰囲気で、
常に他の2人より半歩下がって、
極めて控え目な印象に見えた。
僕は自身華やかな質ではなかったし、
3年で部長ではあったのだけれど、
勧誘自体は後輩に任せていた。
しかし、周囲の喧騒から少し距離を置くようにして、
常にやや顔を俯けている加奈子の雰囲気には、
最初からちょっと惹かれるものがあった。
いつも定期公演の会場にもしている劇団の部室で、
勧誘のための寸劇をした後、
興味のある人はお茶でも飲みに行こうと、
2年生が声が掛けた時、
一緒に来た2人はすぐに参加を表明したけれど、
加奈子は何か思い悩む様子で、
すぐには行くとは言わなかった。
そして、ふいに立ち上がると、
白いワンピース姿で部室の黒い壁の前に立ち、
左手を上に上げるようなポーズを取って、
最初に正面を向き、
それから半身になって、
その左側だけをこちらに見せた。
最初、少女が闇の中に立っていた。
それが、一瞬にして成熟した大人の女性に変わった。
僕は一瞬見たものが信じられなかった。
そして、すぐに辺りを見回したが、
加奈子のことを見ていたのは、
僕1人しかいなかった。
僕と彼女は視線を合わせ、
加奈子は恥ずかしそうな、
それでいて共犯者めいた笑みを漏らすと、
すぐに僕から視線を逸らし、
黒い壁から離れると、
グループの2人のところに戻った。
そして、2人と一緒に、お茶を飲みに行くことが決まり、
その数日後には彼女だけが、
劇団に入ることを決めたのだった。
彼女が稀代のアングラ女優に変貌することを、
その時点で予測した劇団員は誰もいなかった。
(つづく)
2015-02-15 17:14
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