「皆既食」(2014年蜷川幸雄演出版) [演劇]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は祝日で診療所は休診です。
今福井から戻って来たところです。
休みの日趣味の話題です。
今日はこちら。
ディカプリオ主演の映画「太陽と月に背いて」の、
原作の戯曲版を、
蜷川幸雄が演出し、
岡田将生と生瀬勝久の主演で、
渋谷のシアターコクーンで上演されています。
これはランボーとヴェルレーヌという、
2人の不世出の詩人の、
退廃的で暴力的な逃避行を描いたもので、
ホモセクシャルな関係も赤裸々に描いているのが特徴です。
映画をご覧になった方もお分かりとは思いますが、
ヴェルレーヌは奥さんに暴力を振るい、
アル中の癖に、妻と1人息子を放り出して、
自分より若く美少年のランボーと、逃避行を続け、
2人の間でも何度も刃傷沙汰に至って、
発砲して殺しかけたりもしています。
要するに目茶苦茶なDV野郎で、
生活破綻者です。
本当にいた人なのですから、
当時の知り合いは良い迷惑ですが、
フィクションの素材としては、
人間の究極的な姿の1つとして魅力的です。
しかし、その規格外の目茶苦茶な魅力が、
今回の舞台で十全に描かれていたのかと言うと、
大変に疑問で、
作品は変に格調が高くて平坦で、
岡田将生さんのファンが多いと思われる客席は、
真面目に舞台を観ようという、
ある意味健気な労力が払われながら、
耐え切れずに眠りに着く方が、
僕の観た日には少なからず見られました。
蜷川幸雄氏としては、
本当に上演がしたかったのか疑問の残る仕事で、
今年の演出作品は、
ざっと見ただけでも9作品くらいあり、
正直何処までご本人の演出が、
きめ細かくなされているのか、
演出助手の方の持ち分が、
どの程度あるのかしら、
と懐疑的な気分にもなります。
精力的なのは素晴らしいことですが、
今回の芝居でも演出に新味は殆どなく、
上演すること自体にも、
やや疑問の残る仕上がりだったので、
もう少し本数を絞って、
質の高いものを見せて欲しいな、
というのが僭越ですが偽らざる思いです。
以下ネタバレがあります。
物語はまず、
晩年(と言っても実際には50歳くらいですが…)
のヴェルレーヌが、
先に亡くなったランボーについて語るところから始まり、
その回想という設定で、
2人の初めての出会いへと時間を遡ります。
まず妻の実家での、
突然乱入した自然児のような17歳のランボーと、
ヴェルレーヌの妻や義父母との諍いがあり、
ヴェルレーヌは酒を飲んで妻を殴ると、
ランボーと共に妻や息子を捨てて、
逃避行に出掛けます。
その後はヨーロッパを転々とした、
2人の流浪の旅が、
アパートや酒場などを舞台に描かれ、
愛憎のもつれからヴェルレーヌはランボーを銃で撃ち、
牢屋に入ってから数年後の、
再びの出逢いと、再びの別れ、
そして酒場でランボーの妹からその死を告げられる場面に繋がり、
ラストは再び晩年のヴェルレーヌの独白で幕が下ります。
波乱万丈の物語なのですが、
基本的に室内で2人が口げんかをしている、
といった場面が多いので、
全体に単調で変化に乏しく、
ここぞという盛り上がる場面がありません。
何より主人公2人の天才の証である詩が、
戯曲には全く登場しないので、
それが1つのポリシーであることは分かりますが、
2人が天才であることを、
明確に示すような場面がなく、
ただの粗暴で生活破綻者の2人の逃避行、
というようにしか見えないのが、
劇作上の大きな疑問です。
要は主人公の2人が、
藝術家であるようにはとても見えないのです。
演出もあまり力が入っているようには見えません。
基本的には時代考証通りのセットが組まれ、
それがソファーや鏡台、壁などのパーツに分かれて、
ほの暗い中で転換し、
それ自体を1つの見せ場にする趣向は、
「身毒丸」以降何度もリフレインされた演出で、
目新しさは全くありません。
蝋燭の光を主体として照明も、
これまでにも何度も何度も使われたものです。
いつもの蜷川演出では、
オープニングとエンディングに、
それなりの主張があるのですが、
今回はオープニングも、
ただ薄暗い中でセットが動くだけですし、
エンディングも独白を終えた生瀬勝久に、
スポットが当たって、
それが絞られて暗転になるだけです。
流れる音効も、
これまでに何度も使われているものが殆どです。
(シガー・ロスのサードアルバム、
マーラーの5番、ワーグナーなど定番)
これまでにない何かを伝えたいという熱情のようなものは、
今回の舞台の何処からも感じられませんでした。
感じられたのは、
極力予算を削減しよう、
という意図のみでした。
キャストは殆ど岡田将生と生瀬勝久に尽きます。
他のキャストの出番は極めて少ないからです。
両者とも熱演でしたが、
何と言うか想定内の芝居で、
岡田さんは映像での芝居そのまま、という感じでしたし、
生瀬さんはせっかく久しぶりに、
舞台で全力で臨める役柄であったのに、
声を落とすと殆ど台詞が聞き取れず、
がなっているだけ、
というような荒い芝居になっていたのは、
非常に残念に思いました。
多忙ですし、
練習が充分ではなかったのでしょうか。
最後に違和感があったのが、
生瀬さんが扮するヴェルレーヌのメイクで、
禿の鬘にひげもじゃの扮装は、
マルクスのようだったのですが、
実際には没年が51歳ですから、
確かにひげもじゃの写真はありますが、
生瀬さん自身の年齢と近いのですから、
もっと素に近い扮装で、
素に近く演じた方が、
より良かったように思いました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は祝日で診療所は休診です。
今福井から戻って来たところです。
休みの日趣味の話題です。
今日はこちら。
ディカプリオ主演の映画「太陽と月に背いて」の、
原作の戯曲版を、
蜷川幸雄が演出し、
岡田将生と生瀬勝久の主演で、
渋谷のシアターコクーンで上演されています。
これはランボーとヴェルレーヌという、
2人の不世出の詩人の、
退廃的で暴力的な逃避行を描いたもので、
ホモセクシャルな関係も赤裸々に描いているのが特徴です。
映画をご覧になった方もお分かりとは思いますが、
ヴェルレーヌは奥さんに暴力を振るい、
アル中の癖に、妻と1人息子を放り出して、
自分より若く美少年のランボーと、逃避行を続け、
2人の間でも何度も刃傷沙汰に至って、
発砲して殺しかけたりもしています。
要するに目茶苦茶なDV野郎で、
生活破綻者です。
本当にいた人なのですから、
当時の知り合いは良い迷惑ですが、
フィクションの素材としては、
人間の究極的な姿の1つとして魅力的です。
しかし、その規格外の目茶苦茶な魅力が、
今回の舞台で十全に描かれていたのかと言うと、
大変に疑問で、
作品は変に格調が高くて平坦で、
岡田将生さんのファンが多いと思われる客席は、
真面目に舞台を観ようという、
ある意味健気な労力が払われながら、
耐え切れずに眠りに着く方が、
僕の観た日には少なからず見られました。
蜷川幸雄氏としては、
本当に上演がしたかったのか疑問の残る仕事で、
今年の演出作品は、
ざっと見ただけでも9作品くらいあり、
正直何処までご本人の演出が、
きめ細かくなされているのか、
演出助手の方の持ち分が、
どの程度あるのかしら、
と懐疑的な気分にもなります。
精力的なのは素晴らしいことですが、
今回の芝居でも演出に新味は殆どなく、
上演すること自体にも、
やや疑問の残る仕上がりだったので、
もう少し本数を絞って、
質の高いものを見せて欲しいな、
というのが僭越ですが偽らざる思いです。
以下ネタバレがあります。
物語はまず、
晩年(と言っても実際には50歳くらいですが…)
のヴェルレーヌが、
先に亡くなったランボーについて語るところから始まり、
その回想という設定で、
2人の初めての出会いへと時間を遡ります。
まず妻の実家での、
突然乱入した自然児のような17歳のランボーと、
ヴェルレーヌの妻や義父母との諍いがあり、
ヴェルレーヌは酒を飲んで妻を殴ると、
ランボーと共に妻や息子を捨てて、
逃避行に出掛けます。
その後はヨーロッパを転々とした、
2人の流浪の旅が、
アパートや酒場などを舞台に描かれ、
愛憎のもつれからヴェルレーヌはランボーを銃で撃ち、
牢屋に入ってから数年後の、
再びの出逢いと、再びの別れ、
そして酒場でランボーの妹からその死を告げられる場面に繋がり、
ラストは再び晩年のヴェルレーヌの独白で幕が下ります。
波乱万丈の物語なのですが、
基本的に室内で2人が口げんかをしている、
といった場面が多いので、
全体に単調で変化に乏しく、
ここぞという盛り上がる場面がありません。
何より主人公2人の天才の証である詩が、
戯曲には全く登場しないので、
それが1つのポリシーであることは分かりますが、
2人が天才であることを、
明確に示すような場面がなく、
ただの粗暴で生活破綻者の2人の逃避行、
というようにしか見えないのが、
劇作上の大きな疑問です。
要は主人公の2人が、
藝術家であるようにはとても見えないのです。
演出もあまり力が入っているようには見えません。
基本的には時代考証通りのセットが組まれ、
それがソファーや鏡台、壁などのパーツに分かれて、
ほの暗い中で転換し、
それ自体を1つの見せ場にする趣向は、
「身毒丸」以降何度もリフレインされた演出で、
目新しさは全くありません。
蝋燭の光を主体として照明も、
これまでにも何度も何度も使われたものです。
いつもの蜷川演出では、
オープニングとエンディングに、
それなりの主張があるのですが、
今回はオープニングも、
ただ薄暗い中でセットが動くだけですし、
エンディングも独白を終えた生瀬勝久に、
スポットが当たって、
それが絞られて暗転になるだけです。
流れる音効も、
これまでに何度も使われているものが殆どです。
(シガー・ロスのサードアルバム、
マーラーの5番、ワーグナーなど定番)
これまでにない何かを伝えたいという熱情のようなものは、
今回の舞台の何処からも感じられませんでした。
感じられたのは、
極力予算を削減しよう、
という意図のみでした。
キャストは殆ど岡田将生と生瀬勝久に尽きます。
他のキャストの出番は極めて少ないからです。
両者とも熱演でしたが、
何と言うか想定内の芝居で、
岡田さんは映像での芝居そのまま、という感じでしたし、
生瀬さんはせっかく久しぶりに、
舞台で全力で臨める役柄であったのに、
声を落とすと殆ど台詞が聞き取れず、
がなっているだけ、
というような荒い芝居になっていたのは、
非常に残念に思いました。
多忙ですし、
練習が充分ではなかったのでしょうか。
最後に違和感があったのが、
生瀬さんが扮するヴェルレーヌのメイクで、
禿の鬘にひげもじゃの扮装は、
マルクスのようだったのですが、
実際には没年が51歳ですから、
確かにひげもじゃの写真はありますが、
生瀬さん自身の年齢と近いのですから、
もっと素に近い扮装で、
素に近く演じた方が、
より良かったように思いました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2014-11-24 13:54
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