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鴻上尚史「朝日のような夕日をつれて2014」 [演劇]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は日曜日で診療所は休診です。
台風の雨なので、
朝の駒沢公園はキャンセルして、
今PCに向かっています。

休みの日は趣味の話題です。

今日はこちら。
朝日のような夕日をつれて2014.jpg
鴻上尚史の第三舞台時代の代表作にして、
今にして思うと1980年代の小劇場演劇を代表する作品の1つ、
「朝日のような夕日をつれて」が、
久しぶりに再演されました。

前回の上演から15年以上をおいての上演で、
第三舞台はもう封印された筈なのに、
どうしてなの、という感じもしますが、
紀伊国屋ホール50周年記念ということもあって、
特別に復活、ということのようです。

「朝日のような夕日をつれて」と言えば、
大高洋夫と小須田康人のツートップが初演からの決まりごとで
(正確には小須田さんは最初の再演から)、
今回もその2人が同じ役を、
ある種の伝統芸能のように演じています。
30年以上続けて同じ役を演じるというのは、
何か森光子や松本幸四郎のようで、
小劇場には馴染まないような気もするのですが、
今回特に不動のセンターの大高洋夫は、
魂を入れているのが分かる熱演で、
年齢的にも体力的にも、
この作品を演じるのは本当にギリギリと思うので、
掛け値なしに感動的で、
胸が熱くなるのを抑えられませんでした。

鴻上さんの商売としては、
ややずるい企画だと思うのですが、
結果としては観られて幸せでした。

以下ネタばれを含む感想です。

この作品は男5人のみが出演し、
ベケットの「ゴドーを待ちながら」を下敷きにしています。

ゴドーと言うのは要するに神様(ゴッド)のことで、
神様が不在の時代に、
2人の男がゴドーを待ち続け、
そこに「役者」が現れて、
延々と愚にもつかない時間潰しをするのですが、
結局ゴドーは姿を現しません。

この前衛劇の古典に影響された芝居は、
数多く存在していますが、
その中でも竹内銃一郎の「あの大鴉さえも」と、
この「朝日のような夕日をつれて」は、
その出来栄えで双璧と言って良いと思います。
いずれも小劇場の戯曲としては、
至宝と表現して良いものです。

「あの大鴉さえも」は、
3人の男が大きな板ガラスを運んで、
一軒の豪邸の前に差し掛かるのですが、
そこにいる筈の届け先の奥さんが、
姿を現さずに扉の前で立ち往生する話です。
ガラスは途中で割れてしまうのですが、
架空のガラスをあると信じて、
男3人は扉の向こうにいる奥さんに呼び掛けます。
最初はただの届け先の奥さんであった筈の登場しない女性が、
次第に3人にとっても永遠のマドンナと化すのです。

それに対して「朝日のような夕日をつれて」では、
大高洋夫と小須田康人が、
他の3人のにぎやかしのキャラと共に、
ひたすらに演劇的な遊びを続けながら、
「何か」を待っています。

ゴドーという名前は出て来るのですが、
それが小須田康人演じるおもちゃ会社の社長の娘と、
次第にダブって来ます。
やがて、1人の女性がどうやら死を選んでいて、
それを止められなかった5人の男が、
果てしない遊びを繰り返しながら、
奇跡的に過去と同じ時間が未来に現れ、
彼女が復活することを願っているらしいことが分かります。

面白いことに2つの作品とも、
登場人物は男性のみで、
原作のゴドーを、
舞台に登場しない女性として設定しています。
登場人物全員が、
同時に登場しない1人の女性に呼び掛けるという場面が、
用意されている点も同じです。

ただ、この「朝日…」の方が、
原典のエッセンスを巧みに活かしていて、
原典と同じ5人を登場させ、
それぞれの役割を巧妙に換骨奪胎しています。

この作品は今回が7回目の上演になりますが、
毎回その上演時の風俗を取り入れ、
戯曲の台詞の半分くらいを毎回書き替えています。
しかし、それでいて作品の骨格は不動で、
常に同じ「朝日…」で有り続けています。

このスタイルはつかこうへいの影響と思われますが、
つか作品の改訂が、
特にその活動休止からの復活以降の上演では、
作品を毎回全くの別物にしてしまい、
同じに残した演出や長台詞が、
変に浮いた感じになることが多いのに対して、
この「朝日…」は、
変える部分と変えない部分とのバランスが絶妙で、
オープニングのダンスや、
ラストの傾斜舞台は勿論のこと、
初期第三舞台の特徴であった、
長い2人の抒情的な割台詞や、
「ゴドーの復讐」や「朝日のような夕日ですから」の決め台詞、
小須田康人の進化論の切ない長台詞など、
継続されている部分と、
ひたすらの遊びに明け暮れる、
毎回の改訂部分とが、
いつも1つの作品として溶け合っています。

コンピューターの進化が、
未来を見たい人類の祈りである、
という感慨と、
究極のヴァーチャルリアリティが、
1人の孤独な少女を救えるのか、
という真摯な思いが、
未だ今に生きる僕達にとって、
切実であり続けているのです。

今回の上演は大高洋夫と小須田康人のオリジナルキャストに、
藤井隆と伊礼彼方、玉置玲央の、
「朝日…」初挑戦の3人が絡みます。

勝村政信は無理としても、
筧利夫は出て欲しかったな、
というのは、多くのファンの気持だと思います。
「ミスサイゴン」に急遽市村正親の代役として、
出演しているのですから、
元々は出る予定があったのではないかしら、
と思えなくありません。

藤井隆はどうにか乗り切った、
と言う程度の芝居で、
ギャグも動きも滑舌もボチボチでしたし、
伊礼彼方は「アナと雪の女王」を、
歌うためだけに存在しているようです。
歌は確かに見事ですが、
必死の素人芸の連続が作品の本質であるのに、
プロの歌で誤魔化すのは、
趣旨が違うように思いました。
伊礼さんの台詞量は、
筧さんがこの役を演じた時の半分以下だったと思います。
玉置玲央さんは、
小劇場の若手ホープの1人で、
これまでの同役では最も身体が切れていたと思います。
ただ、いつも思うことですが、
ナルシスティックな感じで完成された芝居をするので、
正直あまり面白みがありません。

そんな訳で今回の上演は、
オリジナルキャストの2人の、
年齢を感じさせないギリギリの熱演に尽きます。
正直2人とも声量は落ちていますし、
途中でボールなどを使った遊びに興じるところなど、
かつての上演より明らかにやれることが減って、
体力も落ちているのが分かります。

しかし、特に大高さんの凄みと心意気は圧巻で、
その立ち姿には心底感動しました。

演出は基本的には同じですが、
今回は映像を多用していて、
肉体で表現する部分が減っているのが、
仕方のないこととは言え、
少し残念に思いました。
ラス前の長台詞は少し手が入っていて、
前の方が良かったと思います。

総じて、あまり建設的な上演ではなく、
客席の「昔は良かったな…」的な生温い雰囲気も、
小劇場の本来の姿とはほど遠いのですが、
小劇場史に残るこの作品の真価を確認出来たことと、
大高さんの心意気には感じるものがあり、
久しぶりに生で舞台を観られる幸せを、
感じることの出来た思いがしました。

ただ、今回この作品を初めてご覧になった方は、
DVDで過去の上演
(1991年かそれ以前のもの。1997年版は駄目です)
を是非ご覧になって下さい。
良くも悪くもこれがバブル時代の小劇場演劇の金字塔なのです。

それでは今日はこのくらいで。

皆さんも良い休日をお過ごし下さい。

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水戸ひろ

こんにちは。
いつもためになる記事ありがとうございます。
本も買いました。

ところで下記のような記事がありました。
http://aasj.jp/news/watch/1999
動脈硬化ってどうなんですかね。あんまり気にする必要はないんですかね。
by 水戸ひろ (2014-08-11 07:29) 

椎羅

初めまして。
私もこの上演を紀伊國屋ホールで2回、
サンシャイン劇場で1回鑑賞いたしました。

貴殿が1997年の「朝日~」がダメな理由を
お聞かせ願いたいと思い、投稿いたしました。

私も1997年の上演も初日と楽日を鑑賞しましたが、
確かにあのときは、個性の濃い役者5人が負けず劣らずぶつかりあい
多少、胃もたれするような芝居だったのを覚えています。
実力も体力もあったせいか、役者自身が芝居に余裕があるように見え、
作品としても芝居としても完成されすぎていた気がしました。
その点では、DVDで見た1991年版のほうが良かった気がします。

ぜひ、他の視点からの見解を伺いたいです。
by 椎羅 (2015-04-17 17:28) 

fujiki

椎羅さんへ
もし記述をご不快に思われたのでしたら、
申し訳ありません。
個々の感じ方や思い入れによって、
どのヴァージョンが最も良いと感じるかは、
違いが大きいように思います。
1997年版が良いと思われた方も、
いらっしゃると思います。
どれを生で最初に体験したかも、
大きいのではないでしょうか。

個人的にはこの作品は、
常に最新の情報を提示し、
前回の公演をアップデートして乗り越える、
というような気概で上演されていたと思うのですが、
その理想が実現されていたのは、
1991年版までで、
1997年の上演は、
ややノスタルジーというか、
守りに入った感があったように思いますし、
時期的にも第三舞台の活動が、
休止に近い時期に当たっていたように思います。
客席の一体感というか、熱気のようなものも、
大分落ちていたように思います。

筧さんがゴドー役をいつもと代わって、
松重さんが入ったのですが、
矢張り筧さんと勝村さんが出るのが、
鉄板であったように個人的には思います。
ただ、これは個人的な好みの問題です。

当時の勝村さんは本当に、
演劇命という感じがあって、
毎回の舞台に命がけで勝負をしている、
という気がしたので、
彼が抜けたというのは、
非常に大きいように思いました。
by fujiki (2015-04-17 17:54) 

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