リヨン歌劇場来日公演「ホフマン物語」 [オペラ]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
朝から何となくぼんやりして、
それから今PCに向かっています。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
フランス国立リヨン歌劇場の来日公演が、
先日オーチャードホールで行なわれました。
演目はオッフェンバッハの未完の傑作「ホフマン物語」です。
今回の公演はなかなか話題豊富です。
世界的に活躍する大野和士さんの凱旋公演で、
名ソプラノのパトリツィア・チョーフィが、
滅多にない1人4役を演じ歌います。
演出は共同制作ではありますが、
フランス気鋭の演出家ロラン・ペリーの傑作です。
これは本当に前評判通りの名演で、
「ホフマン物語」の真価を初めて感じた思いがしました。
歌手陣、オケ、指揮、演出、合唱と、
全てが高レベルで完成度が高く、
特にアントニアのパート(第3幕)は、
本当に優れたオペラのみが持つ、
身の毛がよだつような感動がありました。
「ホフマン物語」は19世紀オペレッタで一世を風靡した、
オッフェンバッハの唯一のオペラで、
遺作であると共に未完の作品です。
内容はホフマンの小説数編を、
ヒロインがソプラノでテノールがホフマン自身という趣向の、
独立した3幕に構成し、
それを挟み込むように、
ホフマンが飲んだくれる酒場の場面が置かれます。
第4幕に流れる「ホフマンの舟歌」の旋律と、
第2幕の自動人形オランピアのコロラトゥーラを駆使したアリアが有名で、
内容もあらすじを読む限りでは、
変化に富んで面白そうなので、
聴き易い作品のように思えます。
僕が生で最初に聴いたのは、
2003年の新国立劇場版の初演ですが、
何と言うか物凄く詰らなくて、
聴いていて期待が一気にしぼむのを感じました。
物凄くポップなセットで、
舞台面は童話の世界のようなのですが、
内容は意外に暗く、かつ長大な作品で、
最初の酒場の場面だけでも1時間近くあります。
その上台詞がやや抽象的で、
何を言わんとしているのが要領を得ない感じなので、
オランピアの件になる前には疲れ切ってしまうのです。
「ホフマンの舟歌」に至っては、
伴奏的に演奏されるだけなので、
有名なのにこれだけなの、
とこれもガッカリしてしまいます。
また、特に後半が支離滅裂で、
その上急に駆け足になるので、
満足感や余韻のようなものが、
何もないまま終幕を迎えてしまうのです。
何だこりゃ、と言う感じでした。
この時の上演はただ、ガランチャがミューズを歌っていて、
物凄く美しかったことは記憶しています。
彼女は大スターになりましたが、
その後の来日はないと思います。
その後2004年にデセイ様の来日があり、
完全にその虜になったので、
デセイ様の過去の当たり役の1つである、
「ホフマン物語」のオランピアのパートを、
手当たり次第に映像や音源で観聴きしました。
オランピアは自動人形なので、
そう登場場面が多い訳ではなく、
登場して最初のコロラトゥーラのアリアを歌い、
もう一度踊りながらコロラトゥーラのパッセージを歌いますが、
それは断片的ですぐに壊れてお終いです。
それでも歌手や演出の違いにより、
極めて多くのバリエーションがあり、
その違いを確認するだけでも楽しい作業でした。
デセイ様だけでも10種類近いそれぞれ異なる演出で、
オランピアを歌っています。
ただ、最初に聴いた時の印象があまりに悪かったので、
「ホフマン物語」という作品全体に対する興味は、
なかなか湧くことがありませんでした。
全幕の録画だと、
巻頭1時間ちょっとのところでオランピアの登場があり、
1時間半ではそのパートは終了するので、
それ以降は録画自体もしませんでした。
そのトータルな魅力を初めて十全に感じたのは、
今回の上演が初めてです。
この作品は初演の前に作曲家が亡くなっているので、
決定稿というものが存在していません。
オペラには台詞まで歌にして歌う場合と、
台詞自体は舞台劇のように普通にしゃべり、
それから歌のパートが入る、
というような形式のものがあります。
しかし、この作品ではそのどちらになるかも決まっておらず、
台詞をしゃべるヴァージョンもあれば、
全て歌というヴァージョンもあります。
近年この作品の未発表の草稿や楽譜などが大量に発見されたので、
それでまた多くの別箇のヴァージョンが作られ、
それでも決定版がないので、
かなりややこしいことになっています。
一応作品は5幕の構成ですが、
後半の4幕と5幕が特に未完成度が高く、
4幕のヒロインはジュリエッタという娼婦ですが、
彼女は殺されるヴァージョンもあれば、
逃げるだけというヴァージョンもあり、
更には殺す相手も一定していません。
5幕に至ってはラストが決まっておらず、
飲み屋の合唱みたいになって終わるものもあり、
何かしんみりとミューズが歌って終わるものもあります。
最後になって実際の生身のヒロインである、
ステラというプリマドンナが登場するのですが、
登場する意味がないと感じるくらい、
その扱いはおざなりです。
今回の上演の特徴は、
最近見付かった草稿などをかなり取り入れて、
ある部分は作者以外の脚色も加え、
最後まで歌のパートを充実させていることです。
台詞のパートは多く取り入れられ、
そのため大分ストーリーが分かり易くなっています。
その上で通常は歌わないニクラウスのアリアなども追加し、
ジュリエットのパートを膨らませて、
ラストのステラの歌も増やしています。
それでも、矢張り1から3幕と比べると、
それ以降の出来はかなり落ち、
駆け足になる点は変わらないのですが、
未完成なまま尻すぼみで終わってしまう、
という印象はかなり軽減されました。
(上記ちらしの上演時間は嘘八百で、
実際はもっと時間が掛かっていました)
そのヴァージョンを演出したのが、
フランスの俊英オペラ演出家のロラン・ペリーです。
僕はこの人は、
現在活躍しているオペラ演出家の中では、
最も好きです。
皮肉屋の感じや引用癖は、
イギリスのロベルト・カーセンに似たところはあるのですが、
カーセンほど先鋭ではなく、
何より安っぽい舞台を作りません。
前衛と保守のバランスが絶妙なのです。
これまでにトリノ歌劇場の来日での「椿姫」と、
英国ロイヤルオペラの来日での「マノン」を聴きましたが、
いずれも優れた舞台で、
古典的骨格を大事にしながら、
現代のエッセンスをしっかりと取り入れ、
プリマドンナに奉仕する姿勢を取っているのが好印象です。
「椿姫」はデセイ様が、
「マノン」はネトレプコが、
最も輝くように演出されているのがさすがで、
今回のチョーフィも彼女の多彩な魅力が、
極めて惹き立つように演出されています。
演出は今回は凝りに凝ったもので、
青い壁が縦横無尽に姿を変える可動式のセットも見事ですが、
自動人形のオランピアは、
人力のクレーンで操られ、
アリアの後半では周囲の合唱のすれすれまでぶん廻された上に、
最後は空中をオケピットの上空までせり出します。
それも最初はブラックアートで宙に浮いたように見せ、
後半ではその仕掛けが徐々に可視化される辺りの、
タイミングも絶妙です。
3幕のアントニアは作品中でも白眉ですが、
演出も最も工夫が凝らされ、
立体的に入り組んだ階段の交錯する、
ドイツ表現主義の映画のようなセットに、
背後にはグルグルと回転する渦巻きが現れ、
アントニアの母の亡霊は、
煙が巨大な人間の顔になって歌い掛けるという、
凝ったCGアートで表現されています。
ジュリエットと悪魔に影を盗まれるシークエンスでは、
吊られた大きな鏡がモニターになっていて、
そこに影を失くした男は映らなくなります。
唯一気に入らないのは、
オープニングに詰らない付け足しをするのが好きなことで、
今回も原作にないモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」のアリアの一部を、
謎のソプラノ歌手が舞台中央でPAで歌い、
それを前でホフマンが聞いている、
という蛇足としか思えない場面を追加していました。
大野さんもこんな演出は拒否すれば良いのに、
とそれだけは残念でなりません。
今回の上演の一番の話題は、
大野和士さんの凱旋公演であることです。
小澤征爾さんを嫌う人はマニアにも多いのですが、
同じ世界的な指揮者でも、
大野さんを貶す人は殆どいません。
感性で突っ走る感じの小澤さんと比べると、
非常に緻密で知的な感じがしますし、
オペラの解説などを聴けば、
その理知的な語り口に、
誰でも虜になってしまいます。
しかし、これまでの大野さんの指揮したオペラの上演は、
正直今一つの感想を持っています。
2006年モネ劇場の来日で披露された「ドン・ジョバンニ」は、
演出も舞台に髑髏を敷き詰めた、退廃的な面白いもので、
音楽にも拘りが感じられましたが、
タイトルロールのベテラン、キーンリーサイドが、
やる気が欠片も感じられないダレた歌唱で、
ガッカリさせられましたし、
続いて2009年にリヨン歌劇場と演奏会形式で披露された、
マスネの「ウェルテル」は、
今度はタイトルロールの若手テノールが、
とても主役を歌える水準になく、
へっぽこ歌唱でこれもイライラするような出来になりました。
その後で新国立劇場で上演された「トリスタンとイゾルデ」では、
トリスタン役の歌手は、
終始プロンプの声を聴きながら歌う、
という「リハーサルはどうなっていたの?」
と問い掛けたくなるような悲しい出来でした。
どうも大野さんはベテラン歌手と折り合いが悪いのかしら、
と個人的にはそんな印象を受けました。
しかし、今回の上演ではこれまでのようなことはなく、
歌手陣は全て、
ややマイペースな人はいるのですが、
この名作オペラに奉仕しようという、
確固たる姿勢を常に持っていて、
大野さんの表現する緻密かつ繊細で、
時にデモーニッシュな輝きを放つ音楽と、
ピタリとマッチして何度も至福の瞬間を作り上げていました。
歌手陣ではタイトルロールのオズボーンと、
4役を全て演じて出ずっぱりのチョーフィが圧巻です。
オズボーンはこの作品を余裕を持って歌えるだけの技量と声を持ち、
ホフマンのダークな部分も巧みに表現して、
安全運転に物足りなく感じる瞬間もありますが、
トータルには極めて充実した歌唱です。
チョーフィはイタリアのソプラノとしては、
コロラトゥーラも軽くこなし、
あのビオンディの名演「バヤゼット」の録音にも参加して、
バロックもがっちり歌い、
ドニゼッティの狂乱アリアなどでは、
意外に肉体派の側面も見せる、
特異な存在です。
キャリアの最初の頃は、
可憐な少女の面持ちで、
「ラ・ボエーム」のムゼッタなどを軽く歌っていましたが、
2002年頃に当時絶頂期でありながら、
不調も繰り返してキャンセルの多いデセイ様の代役を多くこなして、
顔を歪ませ、身体から絞り出すように狂乱アリアを歌う姿は、
既に独特の存在感がありました。
今回の舞台では主要な4役を1人で演じる上に、
通常のヴァージョンより歌自体も多いという難役を、
中1日のスケジュールで3回歌い切りました。
この4役を1人で歌うというのは、
録音はあっても実際の舞台ではあまりされたことがなく、
デセイ様も一度企画をされたのですが、
結果的には実現せずに終わりました。
その4役1人歌いを生で聴けるというだけでも、
今回の上演は意義がありますが、
特にアントニアの凄みと迫力は素晴らしく、
このパートだけは、
ともかく歌手も演出もオケも指揮も、
全てが最高でした。
上演は残念ながら終了していますが、
テレビの録画が入っていましたので、
放映の際には是非ご覧頂きたいと思います。
これぞオペラです。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
下記書籍引き続き発売中です。
よろしくお願いします。
六号通り診療所の石原です。
朝から何となくぼんやりして、
それから今PCに向かっています。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
フランス国立リヨン歌劇場の来日公演が、
先日オーチャードホールで行なわれました。
演目はオッフェンバッハの未完の傑作「ホフマン物語」です。
今回の公演はなかなか話題豊富です。
世界的に活躍する大野和士さんの凱旋公演で、
名ソプラノのパトリツィア・チョーフィが、
滅多にない1人4役を演じ歌います。
演出は共同制作ではありますが、
フランス気鋭の演出家ロラン・ペリーの傑作です。
これは本当に前評判通りの名演で、
「ホフマン物語」の真価を初めて感じた思いがしました。
歌手陣、オケ、指揮、演出、合唱と、
全てが高レベルで完成度が高く、
特にアントニアのパート(第3幕)は、
本当に優れたオペラのみが持つ、
身の毛がよだつような感動がありました。
「ホフマン物語」は19世紀オペレッタで一世を風靡した、
オッフェンバッハの唯一のオペラで、
遺作であると共に未完の作品です。
内容はホフマンの小説数編を、
ヒロインがソプラノでテノールがホフマン自身という趣向の、
独立した3幕に構成し、
それを挟み込むように、
ホフマンが飲んだくれる酒場の場面が置かれます。
第4幕に流れる「ホフマンの舟歌」の旋律と、
第2幕の自動人形オランピアのコロラトゥーラを駆使したアリアが有名で、
内容もあらすじを読む限りでは、
変化に富んで面白そうなので、
聴き易い作品のように思えます。
僕が生で最初に聴いたのは、
2003年の新国立劇場版の初演ですが、
何と言うか物凄く詰らなくて、
聴いていて期待が一気にしぼむのを感じました。
物凄くポップなセットで、
舞台面は童話の世界のようなのですが、
内容は意外に暗く、かつ長大な作品で、
最初の酒場の場面だけでも1時間近くあります。
その上台詞がやや抽象的で、
何を言わんとしているのが要領を得ない感じなので、
オランピアの件になる前には疲れ切ってしまうのです。
「ホフマンの舟歌」に至っては、
伴奏的に演奏されるだけなので、
有名なのにこれだけなの、
とこれもガッカリしてしまいます。
また、特に後半が支離滅裂で、
その上急に駆け足になるので、
満足感や余韻のようなものが、
何もないまま終幕を迎えてしまうのです。
何だこりゃ、と言う感じでした。
この時の上演はただ、ガランチャがミューズを歌っていて、
物凄く美しかったことは記憶しています。
彼女は大スターになりましたが、
その後の来日はないと思います。
その後2004年にデセイ様の来日があり、
完全にその虜になったので、
デセイ様の過去の当たり役の1つである、
「ホフマン物語」のオランピアのパートを、
手当たり次第に映像や音源で観聴きしました。
オランピアは自動人形なので、
そう登場場面が多い訳ではなく、
登場して最初のコロラトゥーラのアリアを歌い、
もう一度踊りながらコロラトゥーラのパッセージを歌いますが、
それは断片的ですぐに壊れてお終いです。
それでも歌手や演出の違いにより、
極めて多くのバリエーションがあり、
その違いを確認するだけでも楽しい作業でした。
デセイ様だけでも10種類近いそれぞれ異なる演出で、
オランピアを歌っています。
ただ、最初に聴いた時の印象があまりに悪かったので、
「ホフマン物語」という作品全体に対する興味は、
なかなか湧くことがありませんでした。
全幕の録画だと、
巻頭1時間ちょっとのところでオランピアの登場があり、
1時間半ではそのパートは終了するので、
それ以降は録画自体もしませんでした。
そのトータルな魅力を初めて十全に感じたのは、
今回の上演が初めてです。
この作品は初演の前に作曲家が亡くなっているので、
決定稿というものが存在していません。
オペラには台詞まで歌にして歌う場合と、
台詞自体は舞台劇のように普通にしゃべり、
それから歌のパートが入る、
というような形式のものがあります。
しかし、この作品ではそのどちらになるかも決まっておらず、
台詞をしゃべるヴァージョンもあれば、
全て歌というヴァージョンもあります。
近年この作品の未発表の草稿や楽譜などが大量に発見されたので、
それでまた多くの別箇のヴァージョンが作られ、
それでも決定版がないので、
かなりややこしいことになっています。
一応作品は5幕の構成ですが、
後半の4幕と5幕が特に未完成度が高く、
4幕のヒロインはジュリエッタという娼婦ですが、
彼女は殺されるヴァージョンもあれば、
逃げるだけというヴァージョンもあり、
更には殺す相手も一定していません。
5幕に至ってはラストが決まっておらず、
飲み屋の合唱みたいになって終わるものもあり、
何かしんみりとミューズが歌って終わるものもあります。
最後になって実際の生身のヒロインである、
ステラというプリマドンナが登場するのですが、
登場する意味がないと感じるくらい、
その扱いはおざなりです。
今回の上演の特徴は、
最近見付かった草稿などをかなり取り入れて、
ある部分は作者以外の脚色も加え、
最後まで歌のパートを充実させていることです。
台詞のパートは多く取り入れられ、
そのため大分ストーリーが分かり易くなっています。
その上で通常は歌わないニクラウスのアリアなども追加し、
ジュリエットのパートを膨らませて、
ラストのステラの歌も増やしています。
それでも、矢張り1から3幕と比べると、
それ以降の出来はかなり落ち、
駆け足になる点は変わらないのですが、
未完成なまま尻すぼみで終わってしまう、
という印象はかなり軽減されました。
(上記ちらしの上演時間は嘘八百で、
実際はもっと時間が掛かっていました)
そのヴァージョンを演出したのが、
フランスの俊英オペラ演出家のロラン・ペリーです。
僕はこの人は、
現在活躍しているオペラ演出家の中では、
最も好きです。
皮肉屋の感じや引用癖は、
イギリスのロベルト・カーセンに似たところはあるのですが、
カーセンほど先鋭ではなく、
何より安っぽい舞台を作りません。
前衛と保守のバランスが絶妙なのです。
これまでにトリノ歌劇場の来日での「椿姫」と、
英国ロイヤルオペラの来日での「マノン」を聴きましたが、
いずれも優れた舞台で、
古典的骨格を大事にしながら、
現代のエッセンスをしっかりと取り入れ、
プリマドンナに奉仕する姿勢を取っているのが好印象です。
「椿姫」はデセイ様が、
「マノン」はネトレプコが、
最も輝くように演出されているのがさすがで、
今回のチョーフィも彼女の多彩な魅力が、
極めて惹き立つように演出されています。
演出は今回は凝りに凝ったもので、
青い壁が縦横無尽に姿を変える可動式のセットも見事ですが、
自動人形のオランピアは、
人力のクレーンで操られ、
アリアの後半では周囲の合唱のすれすれまでぶん廻された上に、
最後は空中をオケピットの上空までせり出します。
それも最初はブラックアートで宙に浮いたように見せ、
後半ではその仕掛けが徐々に可視化される辺りの、
タイミングも絶妙です。
3幕のアントニアは作品中でも白眉ですが、
演出も最も工夫が凝らされ、
立体的に入り組んだ階段の交錯する、
ドイツ表現主義の映画のようなセットに、
背後にはグルグルと回転する渦巻きが現れ、
アントニアの母の亡霊は、
煙が巨大な人間の顔になって歌い掛けるという、
凝ったCGアートで表現されています。
ジュリエットと悪魔に影を盗まれるシークエンスでは、
吊られた大きな鏡がモニターになっていて、
そこに影を失くした男は映らなくなります。
唯一気に入らないのは、
オープニングに詰らない付け足しをするのが好きなことで、
今回も原作にないモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」のアリアの一部を、
謎のソプラノ歌手が舞台中央でPAで歌い、
それを前でホフマンが聞いている、
という蛇足としか思えない場面を追加していました。
大野さんもこんな演出は拒否すれば良いのに、
とそれだけは残念でなりません。
今回の上演の一番の話題は、
大野和士さんの凱旋公演であることです。
小澤征爾さんを嫌う人はマニアにも多いのですが、
同じ世界的な指揮者でも、
大野さんを貶す人は殆どいません。
感性で突っ走る感じの小澤さんと比べると、
非常に緻密で知的な感じがしますし、
オペラの解説などを聴けば、
その理知的な語り口に、
誰でも虜になってしまいます。
しかし、これまでの大野さんの指揮したオペラの上演は、
正直今一つの感想を持っています。
2006年モネ劇場の来日で披露された「ドン・ジョバンニ」は、
演出も舞台に髑髏を敷き詰めた、退廃的な面白いもので、
音楽にも拘りが感じられましたが、
タイトルロールのベテラン、キーンリーサイドが、
やる気が欠片も感じられないダレた歌唱で、
ガッカリさせられましたし、
続いて2009年にリヨン歌劇場と演奏会形式で披露された、
マスネの「ウェルテル」は、
今度はタイトルロールの若手テノールが、
とても主役を歌える水準になく、
へっぽこ歌唱でこれもイライラするような出来になりました。
その後で新国立劇場で上演された「トリスタンとイゾルデ」では、
トリスタン役の歌手は、
終始プロンプの声を聴きながら歌う、
という「リハーサルはどうなっていたの?」
と問い掛けたくなるような悲しい出来でした。
どうも大野さんはベテラン歌手と折り合いが悪いのかしら、
と個人的にはそんな印象を受けました。
しかし、今回の上演ではこれまでのようなことはなく、
歌手陣は全て、
ややマイペースな人はいるのですが、
この名作オペラに奉仕しようという、
確固たる姿勢を常に持っていて、
大野さんの表現する緻密かつ繊細で、
時にデモーニッシュな輝きを放つ音楽と、
ピタリとマッチして何度も至福の瞬間を作り上げていました。
歌手陣ではタイトルロールのオズボーンと、
4役を全て演じて出ずっぱりのチョーフィが圧巻です。
オズボーンはこの作品を余裕を持って歌えるだけの技量と声を持ち、
ホフマンのダークな部分も巧みに表現して、
安全運転に物足りなく感じる瞬間もありますが、
トータルには極めて充実した歌唱です。
チョーフィはイタリアのソプラノとしては、
コロラトゥーラも軽くこなし、
あのビオンディの名演「バヤゼット」の録音にも参加して、
バロックもがっちり歌い、
ドニゼッティの狂乱アリアなどでは、
意外に肉体派の側面も見せる、
特異な存在です。
キャリアの最初の頃は、
可憐な少女の面持ちで、
「ラ・ボエーム」のムゼッタなどを軽く歌っていましたが、
2002年頃に当時絶頂期でありながら、
不調も繰り返してキャンセルの多いデセイ様の代役を多くこなして、
顔を歪ませ、身体から絞り出すように狂乱アリアを歌う姿は、
既に独特の存在感がありました。
今回の舞台では主要な4役を1人で演じる上に、
通常のヴァージョンより歌自体も多いという難役を、
中1日のスケジュールで3回歌い切りました。
この4役を1人で歌うというのは、
録音はあっても実際の舞台ではあまりされたことがなく、
デセイ様も一度企画をされたのですが、
結果的には実現せずに終わりました。
その4役1人歌いを生で聴けるというだけでも、
今回の上演は意義がありますが、
特にアントニアの凄みと迫力は素晴らしく、
このパートだけは、
ともかく歌手も演出もオケも指揮も、
全てが最高でした。
上演は残念ながら終了していますが、
テレビの録画が入っていましたので、
放映の際には是非ご覧頂きたいと思います。
これぞオペラです。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
下記書籍引き続き発売中です。
よろしくお願いします。
健康で100歳を迎えるには医療常識を信じるな! ここ10年で変わった長生きの秘訣
- 作者: 石原藤樹
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2014/05/14
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
2014-07-12 07:55
nice!(33)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0