コルンゴルト「死の都」(新国立劇場上演版) [オペラ]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は診療はいつも通りですが、
レントゲン装置の入れ替えがあるので、
本日はレントゲンの撮影は出来ません。
ご迷惑をお掛けますがご了承下さい。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
滅多に上演されることのない、
コルンゴルトの「死の都」が、
今新国立劇場で上演中です。
つい最近日本人キャストによるびわ湖での上演もあり、
また東京春音楽祭でもコルンゴルトの演奏会があるなど、
ちょっとしたコルンゴルトブームが、
日本に訪れているようです。
コルンゴルトは20世紀の初めに、
オペラ作家として活躍し、
ドイツ系のユダヤ人であったために、
アメリカに渡って今度は映画音楽の世界で、
初期のトーキーを支えた作曲家です。
古典的なオペラを作曲した、
ほぼ最後の世代ということになり、
この「死の都」は現代でも上演されているという意味で、
彼のオペラの代表作で、
その完成は1920年、
コルンゴルト若干23歳の時です。
その作風はこの作品を聴く限りは、
ワーグナーの影響が顕著で、
そこにプッチーニのエッセンスが、
随所に振り掛けられている、という感じです。
ただ、その内容は心理学的な甘美で深い世界で、
ワーグナーよりは短くまとまっているので聴き易く、
埋もれるには惜しい作品であることは間違いがありません。
今回の上演はフィンランドの歌劇場の演出の貸出で、
僕好みの美しく精緻な舞台に、
キャストもビジュアル、歌共にまあまあであったので、
新国立劇場としては上質のものだったと思います。
舞台はベルギーの古都ブルージュで、
主人公の青年パウルは、
若くして愛する妻を喪い、
妻の遺髪や写真が並ぶ、妻を偲ぶ部屋で、
妻の幻影に捉われた暮らしをしています。
そこに亡き妻マリーと瓜二つの踊り子マリエッタが現れ、
パウルは生まれ変わったマリーとして、
マリエッタを愛するのですが、
マリエッタは自分だけを愛するようにパウルに求め、
死んだマリーを侮辱するので、
興奮したパウルは発作的にマリエッタを殺してしまいます。
と、実は全てはパウルの夢であったことが最後に分かり、
パウルはマリーと決別して、
町を出る決意をします。
全体の構成は3幕で、
1幕の途中でマリエッタが現れ、
彼女が去った後で今度はマリーの幻影が現れて、
その幻影と共にパウルは眠るのですが、
その1幕ラストまでが現実で、
その後は彼の見た夢、という構成になっています。
1人のソプラノがマリーとマリエッタという2役を歌い、
それが死者と生者で、
主役と一種の三角関係になる、
という趣向がオペラとしてはユニークなもので、
あまり類例はないと思います。
特に1幕で生者との二重唱の後、
今度は死者との二重唱になる、
という構成が面白いと思います。
ただ、2幕以降はこの死者の歌が登場しないので、
その点はやや残念な気がします。
最後の夢落ちというのも、
「夢の場」という独立した場面を作るのは、
古典的なオペラやバレーの定番の設定ですが、
1幕が現実で、2幕以降が夢になり、
ラストになって、場はそのままで現実に戻るというのは、
これも古典的オペラとしては破格の構成です。
ただ、その構成が生きているかと言うと、
ちょっと微妙に思います。
トータルには破綻もある作品だと思うのですが、
「リュートの歌」に代表されるような甘美な旋律の効果が素晴らしく、
哲学的なテーマの処理も、
得難い魅力を放っていると思います。
今回の上演はフィンランドの歌劇場のレンタル演出ですが、
部屋全体を沢山のドールハウスや花束と写真立てで埋め尽くし、
背後にブルージュの街全体を、
俯瞰のミニチュアで配したセットは、
非常に美しく精緻に出来ていて、
最後まで工夫が凝らされていて非常に感心しました。
新国立劇場のオリジナルの演出というのは、
本当に酷い物が殆どなので、
個人的にはレンタルの演出以外は、
全く何の期待もしていません。
あれならば毎回レンタルか、
それでなければ演奏会形式の方が、
余程ましだと思います。
ただ、唯一今回の演出で気に入らないのは、
死んだマリーを別の役者さんに演じさせ、
その声はPAで流すという趣向で、
これは2役として書かれていて、
それで問題がない筈なので、
こうした演出は僕は嫌いです。
歌手はマリーとマリエッタを歌った、
ミーガン・ミラーがなかなかで、
主役のトルステン・ケールは、
1幕は美声で感心したのですが、
スタミナにやや難があり、
3幕は明らかに息切れの目立つ歌唱であったのは、
残念に感じました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は診療はいつも通りですが、
レントゲン装置の入れ替えがあるので、
本日はレントゲンの撮影は出来ません。
ご迷惑をお掛けますがご了承下さい。
今日は土曜日なので趣味の話題です。
今日はこちら。
滅多に上演されることのない、
コルンゴルトの「死の都」が、
今新国立劇場で上演中です。
つい最近日本人キャストによるびわ湖での上演もあり、
また東京春音楽祭でもコルンゴルトの演奏会があるなど、
ちょっとしたコルンゴルトブームが、
日本に訪れているようです。
コルンゴルトは20世紀の初めに、
オペラ作家として活躍し、
ドイツ系のユダヤ人であったために、
アメリカに渡って今度は映画音楽の世界で、
初期のトーキーを支えた作曲家です。
古典的なオペラを作曲した、
ほぼ最後の世代ということになり、
この「死の都」は現代でも上演されているという意味で、
彼のオペラの代表作で、
その完成は1920年、
コルンゴルト若干23歳の時です。
その作風はこの作品を聴く限りは、
ワーグナーの影響が顕著で、
そこにプッチーニのエッセンスが、
随所に振り掛けられている、という感じです。
ただ、その内容は心理学的な甘美で深い世界で、
ワーグナーよりは短くまとまっているので聴き易く、
埋もれるには惜しい作品であることは間違いがありません。
今回の上演はフィンランドの歌劇場の演出の貸出で、
僕好みの美しく精緻な舞台に、
キャストもビジュアル、歌共にまあまあであったので、
新国立劇場としては上質のものだったと思います。
舞台はベルギーの古都ブルージュで、
主人公の青年パウルは、
若くして愛する妻を喪い、
妻の遺髪や写真が並ぶ、妻を偲ぶ部屋で、
妻の幻影に捉われた暮らしをしています。
そこに亡き妻マリーと瓜二つの踊り子マリエッタが現れ、
パウルは生まれ変わったマリーとして、
マリエッタを愛するのですが、
マリエッタは自分だけを愛するようにパウルに求め、
死んだマリーを侮辱するので、
興奮したパウルは発作的にマリエッタを殺してしまいます。
と、実は全てはパウルの夢であったことが最後に分かり、
パウルはマリーと決別して、
町を出る決意をします。
全体の構成は3幕で、
1幕の途中でマリエッタが現れ、
彼女が去った後で今度はマリーの幻影が現れて、
その幻影と共にパウルは眠るのですが、
その1幕ラストまでが現実で、
その後は彼の見た夢、という構成になっています。
1人のソプラノがマリーとマリエッタという2役を歌い、
それが死者と生者で、
主役と一種の三角関係になる、
という趣向がオペラとしてはユニークなもので、
あまり類例はないと思います。
特に1幕で生者との二重唱の後、
今度は死者との二重唱になる、
という構成が面白いと思います。
ただ、2幕以降はこの死者の歌が登場しないので、
その点はやや残念な気がします。
最後の夢落ちというのも、
「夢の場」という独立した場面を作るのは、
古典的なオペラやバレーの定番の設定ですが、
1幕が現実で、2幕以降が夢になり、
ラストになって、場はそのままで現実に戻るというのは、
これも古典的オペラとしては破格の構成です。
ただ、その構成が生きているかと言うと、
ちょっと微妙に思います。
トータルには破綻もある作品だと思うのですが、
「リュートの歌」に代表されるような甘美な旋律の効果が素晴らしく、
哲学的なテーマの処理も、
得難い魅力を放っていると思います。
今回の上演はフィンランドの歌劇場のレンタル演出ですが、
部屋全体を沢山のドールハウスや花束と写真立てで埋め尽くし、
背後にブルージュの街全体を、
俯瞰のミニチュアで配したセットは、
非常に美しく精緻に出来ていて、
最後まで工夫が凝らされていて非常に感心しました。
新国立劇場のオリジナルの演出というのは、
本当に酷い物が殆どなので、
個人的にはレンタルの演出以外は、
全く何の期待もしていません。
あれならば毎回レンタルか、
それでなければ演奏会形式の方が、
余程ましだと思います。
ただ、唯一今回の演出で気に入らないのは、
死んだマリーを別の役者さんに演じさせ、
その声はPAで流すという趣向で、
これは2役として書かれていて、
それで問題がない筈なので、
こうした演出は僕は嫌いです。
歌手はマリーとマリエッタを歌った、
ミーガン・ミラーがなかなかで、
主役のトルステン・ケールは、
1幕は美声で感心したのですが、
スタミナにやや難があり、
3幕は明らかに息切れの目立つ歌唱であったのは、
残念に感じました。
それでは今日はこのくらいで。
今日が皆さんにとっていい日でありますように。
石原がお送りしました。
2014-03-22 08:28
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