野田秀樹「障子の国のティンカーベル」(2014年上演版) [演劇]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
野田秀樹が25歳で書いた、
本人の手で演出されたことの一度もない戯曲の、
2002年以来となる公演が、
イタリア人の演出家によるダブルキャストの舞台として、
池袋で本日まで上演中です。
これは女性の1人芝居で、
僕は個人的には、
野田秀樹の戯曲の中で最も好きな作品です。
若き日の野田秀樹の、
全てが詰っていると言って過言ではなく、
その筆致は物凄く冴えていますし、
後半の切ない抒情には、
胸を掻き毟られるような感銘が残ります。
ただ、上演を想定して書かれていないような部分があるので、
実際に上演された作品が、
成功するかどうかはまた別の問題です。
初演は2002年で主演は鶴田真由でした。
演出は井上尊晶で美術は中山ダイスケです。
演出と美術は非常に冴えていた舞台でしたが、
肝心の鶴田さんは、舞台経験がないのが災いした硬い芝居で、
台詞をしきりに言い直すものですから、
台本本来のリズムが消されてしまい、
大変残念に思ったことを覚えています。
この初演のことは、
今回のパンフレットには全く触れられていないので、
野田さんとしてはあまり認めていないのかも知れません。
今回の舞台は従って、
演出は違いますが初めて野田秀樹公認の上演、
ということになります。
主演は毬谷友子さんと奥村佳恵さんのダブルキャストで、
チケットは両方取ったのですが、
毬谷さんの日は大雪のため、
行くのを断念しました。
従って、今回僕は奥村さんのヴァージョンのみの観劇です。
率直な感想は、
この戯曲の素晴らしさを再認識するものになりましたし、
僕はこの作品は死ぬほど好きなので、
台詞が舞台に立ち上がるだけで満足なのですが、
演出はかなり疑問です。
奥村さんの芝居は悪くはありませんでしたが、
架空の「少年」を見ただけで感じさせてくれるスターでないと、
この芝居は演じきれないのではないか、
と感じました。
観客の就寝率は非常に高く、
せっかくの名作が居眠り大会となっていたことは、
非常に残念でした。
それは原作の罪ではなく、
観客の罪でもなくて、
ひとえに日本の観客と戯曲に内在されたリズムの本質を、
理解していない演出と、
それをお行儀よく演じた女優さんにあると思います。
以下ネタばれがあります。
これは基本的に1人芝居ですが、
マペットで何人かの登場人物が描かれます。
主人公は自分が妖精のティンカーベルである、
と名乗る人物です。
年齢も性別も不詳ですが、
舞台上ではティンカーベルのように見えないといけません。
ティンカーベルはピーターパンの思い出を語り、
一旦姿を消すと、
今度は同じ役者が扮した、
ピーターパンが現れます。
ピーターパンは日本のことを、
「障子の国」として悪しざまに語り、
ティンカーベルのことも罵倒しますが、
そのうちに衣装を脱ぎ捨てると、
ティンカーベルに変貌します。
そして、実はピーターパンは死んでいて、
本当は誰よりもピーターパンに恋焦がれていたティンカーベルは、
1日に一度ピーターパンの扮装をして、
亡きピーターパンを思っていた、
ということが分かります。
それから、
何故ピーターパンが死んだのか、
という語りに入り、
それはエイコ(エーコ?)という少女の日本人形に、
恋をしたことが発端だった、と話し出します。
ピーターパンは妖精と人間のハーフで、
妖精が人形に恋をすることは、
「ひとでなしの恋」として固く禁じられた行為なので、
それが明らかになって、
ピーターパンは妖精の国の裁判に掛けられ、
タロットカードの人物による尋問を受けます。
ピーターパンを弁護する筈だったティンカーベルは、
嫉妬の思いからピーターパンの死刑を望み、
死刑判決が出ると、
今度はピーターパンと共に、
逃避行に出ます。
辿りついたところは、
障子の国の日本家屋の片隅で、
そこでピーターパンの望みにより、
ティンカーベルはピーターパンの身体を14個に切り裂いて、
それを自分の中に飲み込んでしまうのです。
冒険は世界を股に掛けて起こったようにも見え、
それでいて孤独な1人の女性か、
引き籠りの孤独な「少年」が、
閉ざされた部屋の中から紡いだ、
ただの空想のようにも思えます。
結局自分の最愛の人を殺して食べてしまった「少年」は、
終わるともない孤独な問い掛けを続けるのです。
流しのガスの元栓から洩れるガスのシューシューという音が、
「世界の終り」を暗示してこの物語は終わります。
さすが天才という感じの見事な戯曲です。
ティンカーベルが死んだピーターパンに恋い焦がれるあまり、
1日に一度ピーターパンを演じている、
という発想自体が卓越していますし、
恋する人を殺して食べてしまうことによって、
究極の愛が成就するという趣向も素敵です。
最後に自分の中にあるピーターパンを抱き締める場面は、
能の「井筒」を彷彿とさせます。
愛の成就としてのカニバリズムは、
「2万7千光年の旅」や「赤鬼」などで、
野田秀樹が何度も描いているドラマですが、
アンドロギュノスの話や、
「野獣降臨」にあるオシリスとイシスの話、
「ゼンダ城の虜」に出て来るお囃子の音色など、
その後もしくはその前の野田作品のイメージの多くが、
この作品に集大成のように封じ込められていて、
人間と妖精の二分法に、
ヒトとひとでなしの二分法、
地球が実は半分しかなくて、
後は水に浮いた地球の影だ、という、
「走れメルス」に繋がる構想など、
極めて多岐に渡る豊饒なイメージが、
奇跡的にこの一人芝居の中に、
ある種の結晶体のように存在しているのです。
その中では江戸川乱歩の「ひとでなしの恋」のモチーフが、
その後の野田秀樹にはあまり見られない特異なものですが、
ピーターパンと乱歩がないまぜになる辺りに、
他の野田作品にない、
この作品の魅力があるように思います。
イタリアのマルチェロ・マーニさんの演出は、
多分に野田演出を意識したものですが、
ミュージカルの「キャッツ」のような、
シンボル化されたゴミが溢れたような舞台面も、
中央に2枚の畳が置かれ、
その背後に障子が並び、
そこに影絵が映ったりする趣向も、
マペットの使い方も、
いずれも何ら新味はなく、
思い付きめいた趣向のオンパレードで、
しかも貧相な感じなので全く面白くありません。
更に致命的なのは、
最初からじっくりと台詞を聴かせるという感じなので、
前半がダレてしまって、
客席を寝室にしてしまいました。
野田さんの芝居は、
同じ台詞の執拗な繰り返しがあり、
最初と最後でその同じフレーズが、
全く違って聴こえるところに味があるので、
最初はもっとテンポを上げて、
ガンガン飛ばすくらいで丁度良いのです。
前半はもっとスピーディーに、
台詞の残滓が耳の奥に残るくらいで良いのです。
どうも、欧米の演出家の悪いところが出たように思います。
2002年の上演は、
役者さんにはちょっと問題がありましたが、
演出自体はもっと冴えていました。
奥行きのあるセットを組み、
本当の現実の部屋が、
書き割りの向こうにある、という趣向になっていて、
影絵は使われましたが、
遥かに質の高いものでした。
タロットカードの裁判の場面では、
凝った映像が使われて、
今回の上演より遥かに臨場感がありました。
何より一番の違いは、2002年の上演では、
きちんとティンカーベルとピーターパンのコスプレをしていたことで、
今回の小奇麗なホームレスのような衣装は、
何かを基本的に誤解しているように、
僕には思えました。
この芝居はまた是非上演して欲しいのですが、
野田秀樹自身が演出しても、
多分彼自身はこの世界をもう恥ずかしいと感じているので駄目で、
意外に松尾スズキさんの演出で、
彼の好きな女優さんを主役に上演したら、
ワクワクするような逸品に仕上がるのではないかと思います。
この作品の本質は、
作者と演出家が、
主役の女優さんを愛するところにあるからです。
個人的には新妻聖子さんを推奨します。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
野田秀樹が25歳で書いた、
本人の手で演出されたことの一度もない戯曲の、
2002年以来となる公演が、
イタリア人の演出家によるダブルキャストの舞台として、
池袋で本日まで上演中です。
これは女性の1人芝居で、
僕は個人的には、
野田秀樹の戯曲の中で最も好きな作品です。
若き日の野田秀樹の、
全てが詰っていると言って過言ではなく、
その筆致は物凄く冴えていますし、
後半の切ない抒情には、
胸を掻き毟られるような感銘が残ります。
ただ、上演を想定して書かれていないような部分があるので、
実際に上演された作品が、
成功するかどうかはまた別の問題です。
初演は2002年で主演は鶴田真由でした。
演出は井上尊晶で美術は中山ダイスケです。
演出と美術は非常に冴えていた舞台でしたが、
肝心の鶴田さんは、舞台経験がないのが災いした硬い芝居で、
台詞をしきりに言い直すものですから、
台本本来のリズムが消されてしまい、
大変残念に思ったことを覚えています。
この初演のことは、
今回のパンフレットには全く触れられていないので、
野田さんとしてはあまり認めていないのかも知れません。
今回の舞台は従って、
演出は違いますが初めて野田秀樹公認の上演、
ということになります。
主演は毬谷友子さんと奥村佳恵さんのダブルキャストで、
チケットは両方取ったのですが、
毬谷さんの日は大雪のため、
行くのを断念しました。
従って、今回僕は奥村さんのヴァージョンのみの観劇です。
率直な感想は、
この戯曲の素晴らしさを再認識するものになりましたし、
僕はこの作品は死ぬほど好きなので、
台詞が舞台に立ち上がるだけで満足なのですが、
演出はかなり疑問です。
奥村さんの芝居は悪くはありませんでしたが、
架空の「少年」を見ただけで感じさせてくれるスターでないと、
この芝居は演じきれないのではないか、
と感じました。
観客の就寝率は非常に高く、
せっかくの名作が居眠り大会となっていたことは、
非常に残念でした。
それは原作の罪ではなく、
観客の罪でもなくて、
ひとえに日本の観客と戯曲に内在されたリズムの本質を、
理解していない演出と、
それをお行儀よく演じた女優さんにあると思います。
以下ネタばれがあります。
これは基本的に1人芝居ですが、
マペットで何人かの登場人物が描かれます。
主人公は自分が妖精のティンカーベルである、
と名乗る人物です。
年齢も性別も不詳ですが、
舞台上ではティンカーベルのように見えないといけません。
ティンカーベルはピーターパンの思い出を語り、
一旦姿を消すと、
今度は同じ役者が扮した、
ピーターパンが現れます。
ピーターパンは日本のことを、
「障子の国」として悪しざまに語り、
ティンカーベルのことも罵倒しますが、
そのうちに衣装を脱ぎ捨てると、
ティンカーベルに変貌します。
そして、実はピーターパンは死んでいて、
本当は誰よりもピーターパンに恋焦がれていたティンカーベルは、
1日に一度ピーターパンの扮装をして、
亡きピーターパンを思っていた、
ということが分かります。
それから、
何故ピーターパンが死んだのか、
という語りに入り、
それはエイコ(エーコ?)という少女の日本人形に、
恋をしたことが発端だった、と話し出します。
ピーターパンは妖精と人間のハーフで、
妖精が人形に恋をすることは、
「ひとでなしの恋」として固く禁じられた行為なので、
それが明らかになって、
ピーターパンは妖精の国の裁判に掛けられ、
タロットカードの人物による尋問を受けます。
ピーターパンを弁護する筈だったティンカーベルは、
嫉妬の思いからピーターパンの死刑を望み、
死刑判決が出ると、
今度はピーターパンと共に、
逃避行に出ます。
辿りついたところは、
障子の国の日本家屋の片隅で、
そこでピーターパンの望みにより、
ティンカーベルはピーターパンの身体を14個に切り裂いて、
それを自分の中に飲み込んでしまうのです。
冒険は世界を股に掛けて起こったようにも見え、
それでいて孤独な1人の女性か、
引き籠りの孤独な「少年」が、
閉ざされた部屋の中から紡いだ、
ただの空想のようにも思えます。
結局自分の最愛の人を殺して食べてしまった「少年」は、
終わるともない孤独な問い掛けを続けるのです。
流しのガスの元栓から洩れるガスのシューシューという音が、
「世界の終り」を暗示してこの物語は終わります。
さすが天才という感じの見事な戯曲です。
ティンカーベルが死んだピーターパンに恋い焦がれるあまり、
1日に一度ピーターパンを演じている、
という発想自体が卓越していますし、
恋する人を殺して食べてしまうことによって、
究極の愛が成就するという趣向も素敵です。
最後に自分の中にあるピーターパンを抱き締める場面は、
能の「井筒」を彷彿とさせます。
愛の成就としてのカニバリズムは、
「2万7千光年の旅」や「赤鬼」などで、
野田秀樹が何度も描いているドラマですが、
アンドロギュノスの話や、
「野獣降臨」にあるオシリスとイシスの話、
「ゼンダ城の虜」に出て来るお囃子の音色など、
その後もしくはその前の野田作品のイメージの多くが、
この作品に集大成のように封じ込められていて、
人間と妖精の二分法に、
ヒトとひとでなしの二分法、
地球が実は半分しかなくて、
後は水に浮いた地球の影だ、という、
「走れメルス」に繋がる構想など、
極めて多岐に渡る豊饒なイメージが、
奇跡的にこの一人芝居の中に、
ある種の結晶体のように存在しているのです。
その中では江戸川乱歩の「ひとでなしの恋」のモチーフが、
その後の野田秀樹にはあまり見られない特異なものですが、
ピーターパンと乱歩がないまぜになる辺りに、
他の野田作品にない、
この作品の魅力があるように思います。
イタリアのマルチェロ・マーニさんの演出は、
多分に野田演出を意識したものですが、
ミュージカルの「キャッツ」のような、
シンボル化されたゴミが溢れたような舞台面も、
中央に2枚の畳が置かれ、
その背後に障子が並び、
そこに影絵が映ったりする趣向も、
マペットの使い方も、
いずれも何ら新味はなく、
思い付きめいた趣向のオンパレードで、
しかも貧相な感じなので全く面白くありません。
更に致命的なのは、
最初からじっくりと台詞を聴かせるという感じなので、
前半がダレてしまって、
客席を寝室にしてしまいました。
野田さんの芝居は、
同じ台詞の執拗な繰り返しがあり、
最初と最後でその同じフレーズが、
全く違って聴こえるところに味があるので、
最初はもっとテンポを上げて、
ガンガン飛ばすくらいで丁度良いのです。
前半はもっとスピーディーに、
台詞の残滓が耳の奥に残るくらいで良いのです。
どうも、欧米の演出家の悪いところが出たように思います。
2002年の上演は、
役者さんにはちょっと問題がありましたが、
演出自体はもっと冴えていました。
奥行きのあるセットを組み、
本当の現実の部屋が、
書き割りの向こうにある、という趣向になっていて、
影絵は使われましたが、
遥かに質の高いものでした。
タロットカードの裁判の場面では、
凝った映像が使われて、
今回の上演より遥かに臨場感がありました。
何より一番の違いは、2002年の上演では、
きちんとティンカーベルとピーターパンのコスプレをしていたことで、
今回の小奇麗なホームレスのような衣装は、
何かを基本的に誤解しているように、
僕には思えました。
この芝居はまた是非上演して欲しいのですが、
野田秀樹自身が演出しても、
多分彼自身はこの世界をもう恥ずかしいと感じているので駄目で、
意外に松尾スズキさんの演出で、
彼の好きな女優さんを主役に上演したら、
ワクワクするような逸品に仕上がるのではないかと思います。
この作品の本質は、
作者と演出家が、
主役の女優さんを愛するところにあるからです。
個人的には新妻聖子さんを推奨します。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2014-02-23 08:45
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