三谷幸喜「おのれナポレオン」 [演劇]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は明日まで休診です。
少し前に奈良から戻って来たところです。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
三谷幸喜が作・演出する舞台に、
野田秀樹が主演し、
天海祐希や内野聖陽が脇を固める、
魅力的なキャストの舞台が、
池袋で今上演中です。
野田秀樹は三谷作の大河ドラマでは、
勝海舟役を演じましたが、
舞台でこの2人がタッグを組むのは初めてです。
野田秀樹は勿論、
現代日本の演劇界で、
最も意欲的な活躍を続ける演劇人ですが、
役者としての彼は、
普通の意味合いで「まっとうな役者」ではありません。
決められた役柄を、
その役に見えるように演じる、
というようなことはまるでなく、
奇声を発して舞台を駆け回り、
常に野田秀樹以外の、
誰にも見えません。
スタイルは違いますが、
他人の演出を、
最初から拒絶しているような姿勢は、
役者としての唐先生にも近いようにも思えます。
一方で三谷幸喜は緻密な「帳尻の合う」舞台を、
少なくとも最近はその本領にしていて、
規格外の役者を、
その舞台に使うようなリスクは、
あまり冒そうとはしていません。
この2人の才人が、
どのような化学反応を起こすのか、
演劇ファンであれば、
誰もが興味を示すところです。
しかし、
実際に仕上がった舞台は、
正直僕の期待とは、
かなり遠いところに着地していました。
野田秀樹の芝居は、
あくまでいつもの野田秀樹の芝居のままでしたし、
三谷幸喜の劇世界は、
あくまで三谷幸喜のままであったからです。
化学反応のようなものは、
そこにはあまりなく、
野田秀樹の「遊び」はそのまま勝手にやらせて、
それ以外の部分で三谷幸喜の望む芝居を構成する、
というような、
お互いのテリトリーを冒さないように、
慎重に構成された作品でした。
以下、ネタバレがあります。
作品は野田秀樹がナポレオンを演じ、
彼がセントヘレナ島での幽閉生活から死に至るまでの生活を、
その死後20年の時点で、
かつての関係者が、
インタビューに応じる形で回想する、
という構成になっています。
ナポレオンの死の謎を巡るミステリー、
というニュアンスもありますし、
天才とそれに翻弄される天才ではない人々の悲喜劇、
という三谷作品のいつものテーマが展開されています。
ジャンル的には舞台が外国で登場するのは全て外国人、
という三谷作品に最近多い、
歴史物の翻訳劇のスタイルです。
ただ、
全体の構成は2011年の「ろくでなし啄木」に、
非常に似通っていて、
失礼ですがその焼き直し、
という感じもします。
「ろくでなし啄木」は、
石川啄木の死後に、
啄木所縁の2人の人物が、
両者が居合わせた一夜の出来事を、
それぞれの視点で回想する、
という作品で、
最後には啄木の死の謎が、
矢張り本人の視点から解決されます。
今回の作品もナポレオンの死後に、
関わる人物がそれぞれの視点でナポレオンの死を解釈し、
最後にはナポレオン自身により、
それとは別個の解釈が示されます。
「ろくでなし啄木」での啄木も、
常人には理解出来ない特異な人物で、
その点も今回と同じです。
ただ、
「ろくでなし啄木」では、
登場する関係者が2人だけなので、
物語はシンプルですが、
今回はナポレオン以外に5人も登場するので、
どうもゴタゴタした印象になり、
1人1人のこれぞという見せ場がないので、
これだけのキャストを用意して、
ちょっともったいないな、
という印象が拭い切れません。
また、
肝心のナポレオンの死の真相というのが、
最初から「これしかないじゃん」というようなもので、
何の意外性もないばかりか、
その真相自体が「ろくでなし啄木」と被っているので、
幾らなんでも安易ではないか、
という思いがします。
役者は好演ですが、
野田秀樹は野田秀樹のままで、
遊んでいるだけのように見えますし、
天海祐希がこれだけの役では、
如何にも勿体なく、
これならいつもの三谷幸喜お気に入りの女優さんで、
充分じゃん、と思いますし、
内野聖陽は「アマデウス」の幸四郎に瓜二つで、
老人から20年前に戻るところなど、
明らかに「アマデウス」を意識しているのですが、
別にパロディとして面白い訳でもありませんし、
演技も単調で何がしたかったのかよく分かりません。
演出は映像の使い方など、
これまでの三谷演出より、
一歩踏み込んだような感じがありましたが、
2時間20分の上演時間は如何にも長く、
作中ナポレオンが、
ベートーベンの「月光」を、
繰り返しが多く退屈だ、
と批評するところがありますが、
それはこの作品そのものに対する、
皮肉のようにも聞こえました。
勿論三谷幸喜も野田秀樹も、
演劇のプロ中のプロですから、
今回はどうも企画倒れだな、
とは思いながらも、
一定の満足がお客さんに残るように、
精一杯のプロの仕事をしたのが、
今回の作品であったのかも知れません。
個人的には三谷幸喜が最終的には野田秀樹に遠慮して、
大きく踏み込めずに終わったのではないかな、
というように感じました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は明日まで休診です。
少し前に奈良から戻って来たところです。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
三谷幸喜が作・演出する舞台に、
野田秀樹が主演し、
天海祐希や内野聖陽が脇を固める、
魅力的なキャストの舞台が、
池袋で今上演中です。
野田秀樹は三谷作の大河ドラマでは、
勝海舟役を演じましたが、
舞台でこの2人がタッグを組むのは初めてです。
野田秀樹は勿論、
現代日本の演劇界で、
最も意欲的な活躍を続ける演劇人ですが、
役者としての彼は、
普通の意味合いで「まっとうな役者」ではありません。
決められた役柄を、
その役に見えるように演じる、
というようなことはまるでなく、
奇声を発して舞台を駆け回り、
常に野田秀樹以外の、
誰にも見えません。
スタイルは違いますが、
他人の演出を、
最初から拒絶しているような姿勢は、
役者としての唐先生にも近いようにも思えます。
一方で三谷幸喜は緻密な「帳尻の合う」舞台を、
少なくとも最近はその本領にしていて、
規格外の役者を、
その舞台に使うようなリスクは、
あまり冒そうとはしていません。
この2人の才人が、
どのような化学反応を起こすのか、
演劇ファンであれば、
誰もが興味を示すところです。
しかし、
実際に仕上がった舞台は、
正直僕の期待とは、
かなり遠いところに着地していました。
野田秀樹の芝居は、
あくまでいつもの野田秀樹の芝居のままでしたし、
三谷幸喜の劇世界は、
あくまで三谷幸喜のままであったからです。
化学反応のようなものは、
そこにはあまりなく、
野田秀樹の「遊び」はそのまま勝手にやらせて、
それ以外の部分で三谷幸喜の望む芝居を構成する、
というような、
お互いのテリトリーを冒さないように、
慎重に構成された作品でした。
以下、ネタバレがあります。
作品は野田秀樹がナポレオンを演じ、
彼がセントヘレナ島での幽閉生活から死に至るまでの生活を、
その死後20年の時点で、
かつての関係者が、
インタビューに応じる形で回想する、
という構成になっています。
ナポレオンの死の謎を巡るミステリー、
というニュアンスもありますし、
天才とそれに翻弄される天才ではない人々の悲喜劇、
という三谷作品のいつものテーマが展開されています。
ジャンル的には舞台が外国で登場するのは全て外国人、
という三谷作品に最近多い、
歴史物の翻訳劇のスタイルです。
ただ、
全体の構成は2011年の「ろくでなし啄木」に、
非常に似通っていて、
失礼ですがその焼き直し、
という感じもします。
「ろくでなし啄木」は、
石川啄木の死後に、
啄木所縁の2人の人物が、
両者が居合わせた一夜の出来事を、
それぞれの視点で回想する、
という作品で、
最後には啄木の死の謎が、
矢張り本人の視点から解決されます。
今回の作品もナポレオンの死後に、
関わる人物がそれぞれの視点でナポレオンの死を解釈し、
最後にはナポレオン自身により、
それとは別個の解釈が示されます。
「ろくでなし啄木」での啄木も、
常人には理解出来ない特異な人物で、
その点も今回と同じです。
ただ、
「ろくでなし啄木」では、
登場する関係者が2人だけなので、
物語はシンプルですが、
今回はナポレオン以外に5人も登場するので、
どうもゴタゴタした印象になり、
1人1人のこれぞという見せ場がないので、
これだけのキャストを用意して、
ちょっともったいないな、
という印象が拭い切れません。
また、
肝心のナポレオンの死の真相というのが、
最初から「これしかないじゃん」というようなもので、
何の意外性もないばかりか、
その真相自体が「ろくでなし啄木」と被っているので、
幾らなんでも安易ではないか、
という思いがします。
役者は好演ですが、
野田秀樹は野田秀樹のままで、
遊んでいるだけのように見えますし、
天海祐希がこれだけの役では、
如何にも勿体なく、
これならいつもの三谷幸喜お気に入りの女優さんで、
充分じゃん、と思いますし、
内野聖陽は「アマデウス」の幸四郎に瓜二つで、
老人から20年前に戻るところなど、
明らかに「アマデウス」を意識しているのですが、
別にパロディとして面白い訳でもありませんし、
演技も単調で何がしたかったのかよく分かりません。
演出は映像の使い方など、
これまでの三谷演出より、
一歩踏み込んだような感じがありましたが、
2時間20分の上演時間は如何にも長く、
作中ナポレオンが、
ベートーベンの「月光」を、
繰り返しが多く退屈だ、
と批評するところがありますが、
それはこの作品そのものに対する、
皮肉のようにも聞こえました。
勿論三谷幸喜も野田秀樹も、
演劇のプロ中のプロですから、
今回はどうも企画倒れだな、
とは思いながらも、
一定の満足がお客さんに残るように、
精一杯のプロの仕事をしたのが、
今回の作品であったのかも知れません。
個人的には三谷幸喜が最終的には野田秀樹に遠慮して、
大きく踏み込めずに終わったのではないかな、
というように感じました。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2013-05-05 17:28
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