長塚圭史「南部高速道路」 [演劇]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
これから法事のために出掛けます。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
先月上演された舞台ですが、
ご紹介のタイミングがなく、
今回になりました。
長塚圭史さんは長塚京三さんの息子で、
阿佐ヶ谷スパイダースというユニットを率いて、
特に2000年代の前半に、
不器用なタッチながら、
過激で強烈で現代の若者の喘ぎ声が、
鮮血と共に滴り落ちるような、
刺激的な舞台を多く上演しました。
特に「テキサス」、「はたらく男」、「少女とガソリン」辺りは、
悪趣味で退廃的なので万人向きとは言えませんが、
現在の状況を予見するような凄みがあり、
小劇場の歴史に残る仕事だったと思います。
イギリスの劇作家マクバーニーの諸作を演出した、
一連の仕事も優れたものでした。
ただ、最近、特にイギリス留学から帰国後の作品は、
僕にはどうしても納得のいかないものです。
今回の作品はコルタサルの同題の短編小説が原作で、
それを日本を舞台に書き直し、
おそらくは稽古場のエチュード(即興劇)を、
積み重ねるような形式で舞台化したものです。
以下、
舞台と原作の小説の内容についてのネタバレがあります。
舞台は僕はとても推奨出来ませんが、
原作は非常に優れたものなので、
一読をお勧めします。
原作はフランスの幹線道路で、
大渋滞が起こり、
それが果てしなく続くことで、
渋滞した車に乗っている人達の間に、
一種の共同体が出来、
別の共同体との対立や協調、
内部のいざこざなどを繰り返し、
ラストになると、
不意に渋滞が解消してしまうので、
速度を上げた車は一気に分散し、
共同体は一瞬で崩壊して、
跡形も残らなくなる、
という話です。
要するにこれは渋滞の話ではなくて、
人間の集団が形成され、
成熟し、そして環境の変化により、
急激に滅ぶまでの物語です。
僕達が当たり前のように所属し生活している集団や社会も、
実はたまたま生じた渋滞で成立したような儚いもので、
渋滞そのものをコントロールするすべはなく、
いつかは一夜の夢のように消え失せてしまうのです。
まあ、ワンアイデアなのですが、
さすがコルタサルという感じですよね。
最初はリアルな渋滞の描写から始まり、
それが次第に幻想の領域に入り、
それがラストに反転して現実とも幻想ともつかない何処かに、
読者を置き去りにするのです。
さて、
この作品をどうやって演劇化するのでしょうか?
普通渋滞という状態は、
映像ならともかく、
演劇にはなり難いと思います。
原作では停まっているあちこちの車で、
色々な出来事が起こるのですから、
それを舞台の幾つかの場所で行なうようにすると、
舞台は動きがなく、
退屈なものになってしまうからです。
また、車をどのように視覚化するのか、
というのも難しいところです。
車体を全て再現すれば、
予算も非常に掛かりそうですし、
車内の様子が見づらくなります。
イスとハンドル、バンパーの一部くらいを作って、
それ以外はなしで表現するのが、
無難な線にも思いますが、
下手をすれば安っぽくて、
失笑を買うような舞台面になりそうです。
また、ラストには車は猛スピードで走り出すのですから、
それをどう表現するのかも、
舞台では難しいところです。
実際の舞台はこうです。
客席は舞台を取り囲むように設置され、
中央にほぼ何もない素の舞台があって、
上方に高速道路にあるような、
ライトが付いています。
そこに大きなパラソルを持って出演者が現れ、
舞台に座り込んで、
自分の前にパラソルを開いて置くと、
それが何となく車のように見える、
という演出です。
場面毎に出演者はパラソルを畳んで立ち上がり、
しばらく歩いてから、
向きを変えて再び座ります。
ラストは、
立ち上がって舞台をグルグル廻りながら、
1人ずつ退場して行きます。
なるほど、と思わなくもありません。
ただ、如何にも頭でっかちの解決法で、
ここまでしてこの短編小説の状況を、
演劇化する必要が何処にあったのかな、
という点は大いに疑問に思います。
沢山のパラソルが置かれて、
出演者はそこに座り込んでいるので、
舞台に躍動感が皆無ですし、
役者も思い思いの方向を向いてしゃべるので、
台詞も聴き辛くて困ります。
もっと演劇向きの素材が、
幾らでもあったと思いますし、
それを超えてこの作品を上演することが、
この混沌とした絶望の支配する世の中に、
意味のある行為であったとも思いません。
どうも最近の長塚圭史さんは、
方向性を見失って、
自分の向いていない方向に、
無理矢理進んでいるように思えてなりません。
こうした演劇化が困難なような設定を、
スタイリッシュに解決するような試みは、
イギリスの演劇などで確かによく見られる手ですが、
それをそのまま日本の演劇に移殖することは、
あまり戦果の望める方向性とは思えません。
野田秀樹さんは元々、
具象を散りばめて抽象を表現する演出には長けていて、
イギリス留学後は、
欧米流の読み替えの演出を、
彼の幼児から見たおもちゃ箱をひっくり返したような世界観に、
うまく当て嵌めて成功を収めていますが、
彼は矢張り一種の天才なので、
長塚圭史さんが同じ方向を模索するのは誤りだと思います。
勿論2000年代前半の舞台を、
そのまままた続けて欲しい、
というのではありませんが、
少なくとも今の方向性は取り止めて、
もっと生々しく、肉体を切り結んで現在の閉塞感を切り裂くような、
鮮血のほとばしる熱い芝居を、
長塚さんには是非期待したいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんは良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
これから法事のために出掛けます。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
先月上演された舞台ですが、
ご紹介のタイミングがなく、
今回になりました。
長塚圭史さんは長塚京三さんの息子で、
阿佐ヶ谷スパイダースというユニットを率いて、
特に2000年代の前半に、
不器用なタッチながら、
過激で強烈で現代の若者の喘ぎ声が、
鮮血と共に滴り落ちるような、
刺激的な舞台を多く上演しました。
特に「テキサス」、「はたらく男」、「少女とガソリン」辺りは、
悪趣味で退廃的なので万人向きとは言えませんが、
現在の状況を予見するような凄みがあり、
小劇場の歴史に残る仕事だったと思います。
イギリスの劇作家マクバーニーの諸作を演出した、
一連の仕事も優れたものでした。
ただ、最近、特にイギリス留学から帰国後の作品は、
僕にはどうしても納得のいかないものです。
今回の作品はコルタサルの同題の短編小説が原作で、
それを日本を舞台に書き直し、
おそらくは稽古場のエチュード(即興劇)を、
積み重ねるような形式で舞台化したものです。
以下、
舞台と原作の小説の内容についてのネタバレがあります。
舞台は僕はとても推奨出来ませんが、
原作は非常に優れたものなので、
一読をお勧めします。
原作はフランスの幹線道路で、
大渋滞が起こり、
それが果てしなく続くことで、
渋滞した車に乗っている人達の間に、
一種の共同体が出来、
別の共同体との対立や協調、
内部のいざこざなどを繰り返し、
ラストになると、
不意に渋滞が解消してしまうので、
速度を上げた車は一気に分散し、
共同体は一瞬で崩壊して、
跡形も残らなくなる、
という話です。
要するにこれは渋滞の話ではなくて、
人間の集団が形成され、
成熟し、そして環境の変化により、
急激に滅ぶまでの物語です。
僕達が当たり前のように所属し生活している集団や社会も、
実はたまたま生じた渋滞で成立したような儚いもので、
渋滞そのものをコントロールするすべはなく、
いつかは一夜の夢のように消え失せてしまうのです。
まあ、ワンアイデアなのですが、
さすがコルタサルという感じですよね。
最初はリアルな渋滞の描写から始まり、
それが次第に幻想の領域に入り、
それがラストに反転して現実とも幻想ともつかない何処かに、
読者を置き去りにするのです。
さて、
この作品をどうやって演劇化するのでしょうか?
普通渋滞という状態は、
映像ならともかく、
演劇にはなり難いと思います。
原作では停まっているあちこちの車で、
色々な出来事が起こるのですから、
それを舞台の幾つかの場所で行なうようにすると、
舞台は動きがなく、
退屈なものになってしまうからです。
また、車をどのように視覚化するのか、
というのも難しいところです。
車体を全て再現すれば、
予算も非常に掛かりそうですし、
車内の様子が見づらくなります。
イスとハンドル、バンパーの一部くらいを作って、
それ以外はなしで表現するのが、
無難な線にも思いますが、
下手をすれば安っぽくて、
失笑を買うような舞台面になりそうです。
また、ラストには車は猛スピードで走り出すのですから、
それをどう表現するのかも、
舞台では難しいところです。
実際の舞台はこうです。
客席は舞台を取り囲むように設置され、
中央にほぼ何もない素の舞台があって、
上方に高速道路にあるような、
ライトが付いています。
そこに大きなパラソルを持って出演者が現れ、
舞台に座り込んで、
自分の前にパラソルを開いて置くと、
それが何となく車のように見える、
という演出です。
場面毎に出演者はパラソルを畳んで立ち上がり、
しばらく歩いてから、
向きを変えて再び座ります。
ラストは、
立ち上がって舞台をグルグル廻りながら、
1人ずつ退場して行きます。
なるほど、と思わなくもありません。
ただ、如何にも頭でっかちの解決法で、
ここまでしてこの短編小説の状況を、
演劇化する必要が何処にあったのかな、
という点は大いに疑問に思います。
沢山のパラソルが置かれて、
出演者はそこに座り込んでいるので、
舞台に躍動感が皆無ですし、
役者も思い思いの方向を向いてしゃべるので、
台詞も聴き辛くて困ります。
もっと演劇向きの素材が、
幾らでもあったと思いますし、
それを超えてこの作品を上演することが、
この混沌とした絶望の支配する世の中に、
意味のある行為であったとも思いません。
どうも最近の長塚圭史さんは、
方向性を見失って、
自分の向いていない方向に、
無理矢理進んでいるように思えてなりません。
こうした演劇化が困難なような設定を、
スタイリッシュに解決するような試みは、
イギリスの演劇などで確かによく見られる手ですが、
それをそのまま日本の演劇に移殖することは、
あまり戦果の望める方向性とは思えません。
野田秀樹さんは元々、
具象を散りばめて抽象を表現する演出には長けていて、
イギリス留学後は、
欧米流の読み替えの演出を、
彼の幼児から見たおもちゃ箱をひっくり返したような世界観に、
うまく当て嵌めて成功を収めていますが、
彼は矢張り一種の天才なので、
長塚圭史さんが同じ方向を模索するのは誤りだと思います。
勿論2000年代前半の舞台を、
そのまままた続けて欲しい、
というのではありませんが、
少なくとも今の方向性は取り止めて、
もっと生々しく、肉体を切り結んで現在の閉塞感を切り裂くような、
鮮血のほとばしる熱い芝居を、
長塚さんには是非期待したいと思います。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんは良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2012-07-22 06:09
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