コクーン歌舞伎「天日坊」 [演劇]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診ですが、
産業医の講習会なので、
終日都内の大学病院まで出掛けます。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
コクーン歌舞伎の新作が、
昨日まで渋谷で上演されました。
コクーン歌舞伎というのは、
平成6年から当時の中村勘九郎(現勘三郎)と、
元自由劇場の串田和美が中心となり、
当初は歌舞伎座より小さく凝縮された空間で、
新たな歌舞伎の魅力を探り、
通常の歌舞伎座の舞台では、
大きな役が付かない若手の役者にも、
活躍の機会を用意する、
というようなところに、
あったように思います。
最初の「東海道四谷怪談」は、
本水の池を使った立ち回りが好評でしたが、
ある意味猿之助がそれまで散々やってきたことの、
パクリのような感じがありましたし、
基本的にはそれまでの上演と、
同じ演出のものでした。
第二弾の「夏祭浪花鑑」は、
串田和美の演出も、
本腰の入った感じで、
これは非常に見応えがありました。
まず通常の上演では、
やらない場面を復活していましたし、
舞台装置も歌舞伎版を基本的に踏襲しながら、
泥や土のリアルな質感を大事にしていて、
単なるケレンではない新しさを感じました。
また、それほどすんなり筋を追える作品でないにも関わらず、
役者の熱演を、
観客が本当に熱心に観劇していることにも感心しました。
歌舞伎座の客席はご存知の方も多いように、
私語やビニールのバリバリ言う音などが乱れ飛ぶ、
とても無作法な無法地帯であるからです。
同時期に猿之助の一座が、
これも意欲的な「夏祭浪花鑑」を上演しましたが、
その新鮮さにおいては、
コクーン版に遥かに軍配が上がるものでした。
ただし、
良かったのはここまでです。
第三弾の「盟三五大切」では、
歌舞伎版の演出はかなり強引に安っぽく改変され、
役者は笹野高史が加わるようになります。
この作品自体がそもそも、
近年に復活された、
上演としては歴史の浅いものですが、
途中で笹野高史による、
原作の内容を馬鹿にしたような、
愚劣な解説が入るなど、
僕は腹が立って仕方がありませんでした。
串田和美は、
これ以降は意図的に歌舞伎の破壊を目指すようになり、
「三人吉三」では、
意図的に黙阿弥の名台詞を、
後ろ向きで言わせたりしましたし、
舞台装置自体も、
ただの黒い板になったり、
安っぽい絵看板のようになったりもし、
音楽は歌謡曲やオペラアリアやジャズになり、
歌舞伎役者以外の、
主に串田和美のお友達の出演も増え、
「佐倉義民伝」では、
ラップが登場して、
自由劇場時代にタイムスリップしたかのような、
政治色のある演劇の世界が、
繰り広げられました。
歌舞伎をどのように破壊しようが、
それは別に構わないのですが、
僕が悲しいのは、
現勘三郎を始めとする才能ある歌舞伎役者が、
才能はあっても歌舞伎への愛のない人間に、
作品の全てを任せて、
それで平然としていられる、
というその無自覚な態度です。
そんな訳で、
今回の上演には、
僕は全く期待はしていませんでした。
ところが…
これが意外に面白かったので、
演劇と言うのは不思議です。
今回の作品は河竹黙阿弥の、
初期の台本を元に構成されたものですが、
この台本自体近年は上演されていないので、
今回のコクーン歌舞伎が、
復活上演となるものです。
ただ、脚本は官藤官九郎で演出が串田和美ですから、
基本的には黙阿弥にインスパイアされた、
全くの新作と言って良いものです。
重要な役柄に3人も新劇畑の役者が入っているので、
もう既に歌舞伎である、
という前提も放棄されています。
音楽はトランペットの演奏がフィーチャーされた、
洋楽の生演奏です。
ここまで来ると、
何となく清々しい感じがあるのです。
原型は欠片もないので、
中途半端に改変されてイラつく、
ということもないからです。
その一方で、
串田和美が考える歌舞伎のエッセンス、
こうした芝居をメインが歌舞伎役者で演じる意味が何なのかが、
今回はかなりくっきりと出ていたように思えます。
物凄く安っぽい、
キッチュでチープな舞台の中で、
一流の若手の歌舞伎役者が、
黙阿弥らしきもののエッセンスを、
何か必死に演じているのです。
彼らが演じるのは、
黙阿弥が生涯描き続けた、
江戸の闇に蠢くアウトローで、
得意の七五調の決め台詞もあれば、
渡り台詞や名乗りの台詞もあり、
見得も切れば、
立ち回りもあり、
だんまりもあります。
つまり、
安っぽい舞台の中で、
意外に生真面目に「歌舞伎」を演じているのです。
いや、「歌舞伎」を生きているのです。
そして、
その時代遅れの哀しいアウトローは、
役柄でも対比される新劇の役者陣によって、
無残に葬り去られます。
歌舞伎特有の下座音楽や黒子を廃しているのは、
歌舞伎役者を守っている物を、
串田和美は引き剥がし、
歌舞伎役者を裸にしようとしているからです。
橋下徹が文楽の補助金をカットするように、
歌舞伎を守っているものを排除して、
それでも自らの正当性を主張するなら、
その地の底から這い上がって来い、
と言っているのです。
なるほど、
これが串田和美にとっての「歌舞伎」なのか、
と今回納得はしませんが、
何か見えるものはあったのです。
この作品が好きなもう1つの理由は、
これが官藤版「真夜中の弥次さん喜多さん」だ、
ということです。
あの安っぽい背景の感じと言い、
グロテスクでシュールな登場人物と、
悪夢のような場面など、
間違いなくあのカルト漫画を叩き台にしていて、
僕はあの世界が大好きなので、
今回はとても楽しく観劇することが出来たのです。
最後に特筆するべきは、
勘九郎と七之助の熱演で、
これは実に見応えがありますし、
獅童はまあ駄目なのですが、
それでも彼としては120%の踏ん張りでした。
七之助はかなり奇麗な仏倒れを披露していました。
ちょっと着物でカバーする感じがずるいのですが、
それでも見事なものです。
獅童も仏倒れをしましたが、
これは案の定駄目でした。
正直次はもう「歌舞伎」とは名乗らないで、
自由にやって欲しいな、
と思いますし、
そうした新作であれば、
是非に期待したいと思います。
ただ、パンフレットの対談で、
勘三郎が「下座音楽なんてない方が良い」
みたいなことを平気で言うのを読むと、
「分かってないなあ」と思って切なくなるのです。
串田和美はそうした立場の人なんだから、
そうした発言をして当然なのです。
でも、歌舞伎の座頭の当人が、
そんなことを言ったら絶対に駄目なのですが、
当人にはそれが分からないのが悲しいですね。
「下座音楽はじっとあなたの歌舞伎を支えて来たんだよ。
それをなくても良いように言ったら、
そうしたあなたの芝居を縁の下で支えている人達はどう思うかしら」
そうした想像力がないのが、
僕には悲しくて仕方がないのです。
それではそろそろ出掛けます。
皆さんは良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診ですが、
産業医の講習会なので、
終日都内の大学病院まで出掛けます。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
コクーン歌舞伎の新作が、
昨日まで渋谷で上演されました。
コクーン歌舞伎というのは、
平成6年から当時の中村勘九郎(現勘三郎)と、
元自由劇場の串田和美が中心となり、
当初は歌舞伎座より小さく凝縮された空間で、
新たな歌舞伎の魅力を探り、
通常の歌舞伎座の舞台では、
大きな役が付かない若手の役者にも、
活躍の機会を用意する、
というようなところに、
あったように思います。
最初の「東海道四谷怪談」は、
本水の池を使った立ち回りが好評でしたが、
ある意味猿之助がそれまで散々やってきたことの、
パクリのような感じがありましたし、
基本的にはそれまでの上演と、
同じ演出のものでした。
第二弾の「夏祭浪花鑑」は、
串田和美の演出も、
本腰の入った感じで、
これは非常に見応えがありました。
まず通常の上演では、
やらない場面を復活していましたし、
舞台装置も歌舞伎版を基本的に踏襲しながら、
泥や土のリアルな質感を大事にしていて、
単なるケレンではない新しさを感じました。
また、それほどすんなり筋を追える作品でないにも関わらず、
役者の熱演を、
観客が本当に熱心に観劇していることにも感心しました。
歌舞伎座の客席はご存知の方も多いように、
私語やビニールのバリバリ言う音などが乱れ飛ぶ、
とても無作法な無法地帯であるからです。
同時期に猿之助の一座が、
これも意欲的な「夏祭浪花鑑」を上演しましたが、
その新鮮さにおいては、
コクーン版に遥かに軍配が上がるものでした。
ただし、
良かったのはここまでです。
第三弾の「盟三五大切」では、
歌舞伎版の演出はかなり強引に安っぽく改変され、
役者は笹野高史が加わるようになります。
この作品自体がそもそも、
近年に復活された、
上演としては歴史の浅いものですが、
途中で笹野高史による、
原作の内容を馬鹿にしたような、
愚劣な解説が入るなど、
僕は腹が立って仕方がありませんでした。
串田和美は、
これ以降は意図的に歌舞伎の破壊を目指すようになり、
「三人吉三」では、
意図的に黙阿弥の名台詞を、
後ろ向きで言わせたりしましたし、
舞台装置自体も、
ただの黒い板になったり、
安っぽい絵看板のようになったりもし、
音楽は歌謡曲やオペラアリアやジャズになり、
歌舞伎役者以外の、
主に串田和美のお友達の出演も増え、
「佐倉義民伝」では、
ラップが登場して、
自由劇場時代にタイムスリップしたかのような、
政治色のある演劇の世界が、
繰り広げられました。
歌舞伎をどのように破壊しようが、
それは別に構わないのですが、
僕が悲しいのは、
現勘三郎を始めとする才能ある歌舞伎役者が、
才能はあっても歌舞伎への愛のない人間に、
作品の全てを任せて、
それで平然としていられる、
というその無自覚な態度です。
そんな訳で、
今回の上演には、
僕は全く期待はしていませんでした。
ところが…
これが意外に面白かったので、
演劇と言うのは不思議です。
今回の作品は河竹黙阿弥の、
初期の台本を元に構成されたものですが、
この台本自体近年は上演されていないので、
今回のコクーン歌舞伎が、
復活上演となるものです。
ただ、脚本は官藤官九郎で演出が串田和美ですから、
基本的には黙阿弥にインスパイアされた、
全くの新作と言って良いものです。
重要な役柄に3人も新劇畑の役者が入っているので、
もう既に歌舞伎である、
という前提も放棄されています。
音楽はトランペットの演奏がフィーチャーされた、
洋楽の生演奏です。
ここまで来ると、
何となく清々しい感じがあるのです。
原型は欠片もないので、
中途半端に改変されてイラつく、
ということもないからです。
その一方で、
串田和美が考える歌舞伎のエッセンス、
こうした芝居をメインが歌舞伎役者で演じる意味が何なのかが、
今回はかなりくっきりと出ていたように思えます。
物凄く安っぽい、
キッチュでチープな舞台の中で、
一流の若手の歌舞伎役者が、
黙阿弥らしきもののエッセンスを、
何か必死に演じているのです。
彼らが演じるのは、
黙阿弥が生涯描き続けた、
江戸の闇に蠢くアウトローで、
得意の七五調の決め台詞もあれば、
渡り台詞や名乗りの台詞もあり、
見得も切れば、
立ち回りもあり、
だんまりもあります。
つまり、
安っぽい舞台の中で、
意外に生真面目に「歌舞伎」を演じているのです。
いや、「歌舞伎」を生きているのです。
そして、
その時代遅れの哀しいアウトローは、
役柄でも対比される新劇の役者陣によって、
無残に葬り去られます。
歌舞伎特有の下座音楽や黒子を廃しているのは、
歌舞伎役者を守っている物を、
串田和美は引き剥がし、
歌舞伎役者を裸にしようとしているからです。
橋下徹が文楽の補助金をカットするように、
歌舞伎を守っているものを排除して、
それでも自らの正当性を主張するなら、
その地の底から這い上がって来い、
と言っているのです。
なるほど、
これが串田和美にとっての「歌舞伎」なのか、
と今回納得はしませんが、
何か見えるものはあったのです。
この作品が好きなもう1つの理由は、
これが官藤版「真夜中の弥次さん喜多さん」だ、
ということです。
あの安っぽい背景の感じと言い、
グロテスクでシュールな登場人物と、
悪夢のような場面など、
間違いなくあのカルト漫画を叩き台にしていて、
僕はあの世界が大好きなので、
今回はとても楽しく観劇することが出来たのです。
最後に特筆するべきは、
勘九郎と七之助の熱演で、
これは実に見応えがありますし、
獅童はまあ駄目なのですが、
それでも彼としては120%の踏ん張りでした。
七之助はかなり奇麗な仏倒れを披露していました。
ちょっと着物でカバーする感じがずるいのですが、
それでも見事なものです。
獅童も仏倒れをしましたが、
これは案の定駄目でした。
正直次はもう「歌舞伎」とは名乗らないで、
自由にやって欲しいな、
と思いますし、
そうした新作であれば、
是非に期待したいと思います。
ただ、パンフレットの対談で、
勘三郎が「下座音楽なんてない方が良い」
みたいなことを平気で言うのを読むと、
「分かってないなあ」と思って切なくなるのです。
串田和美はそうした立場の人なんだから、
そうした発言をして当然なのです。
でも、歌舞伎の座頭の当人が、
そんなことを言ったら絶対に駄目なのですが、
当人にはそれが分からないのが悲しいですね。
「下座音楽はじっとあなたの歌舞伎を支えて来たんだよ。
それをなくても良いように言ったら、
そうしたあなたの芝居を縁の下で支えている人達はどう思うかしら」
そうした想像力がないのが、
僕には悲しくて仕方がないのです。
それではそろそろ出掛けます。
皆さんは良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2012-07-08 07:05
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