唐組「西陽荘」 [演劇]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
朝からいつものように、
駒沢公園まで走りに行って、
草むしりと洗濯をちょっとして、
それから今PCに向かっています。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
唐先生の新作が、
井の頭公園で今上演中です。
最近は上演時間の短い唐先生の新作ですが、
今回も1幕が30分、
10分強の休憩を挟んで、
2幕が25分くらいで、
正味の上演時間は1時間のコンパクトな2幕劇です。
僕は25年以上唐先生の芝居を観続けていますが、
僕の観始めた頃には、
力のこもった芝居ほど、
上演時間も長い傾向がありました。
その点から言うと、
最近公演毎に上演時間が短くなって行くのは、
ある意味ショックではあったのですが、
前回の「ひやりん児」という作品は、
ひょんなことから2回観劇したので、
初回はその短さとラストの唐突さとに、
正直落胆を感じたのですが、
2回目にはその短さは分かった上で、
じっくりと観たので、
いやこれはこれで悪くない、
というか、
唐先生の芝居自体が、
以前のものとはその様相を次第に変えつつあるのだな、
ということを強く感じたのです。
今回はそうした意味では、
現在の唐先生の特質が良く出た作品という思いがあり、
真剣に観たせいもありますが、
ここ数年の作品の中では、
僕は最も好きな1本です。
以下ネタばれがあります。
オープニングに主役の稲荷卓央が舞台に現われ、
暗幕の中央に扉と窓だけが作られた簡素なセットの前で、
「西陽荘の2階には1室だけ片側の窓の壊れた部屋があり…」
のような台詞を、
囁くように語り始めます。
「秘密の花園」や「夜叉奇想」のオープニングにも、
こうした誰に語りかけているのか分からないような、
不思議な独白がありますが、
今回のそれは、
まさに若き日の唐先生自身が、
自分のパーソナルな思い出を、
得意の妄想を交えて、
僕達に静かに語りかけている、
という素敵なムードがあります。
稲荷卓央の語り口が、
また如何にも若き日の唐先生そのものの語り口を再現していて、
それだけで昔からのファンには、
グッと来るものがあるのです。
稲荷卓央扮する坂巻という男は、
以前は大手の広告会社で、
商品を売るための、
コピーを作るような仕事をしていたのですが、
「消費」という、
消えて費やすような稼業に嫌気がさし、
今度はサフランミルクという、
乳製品の会社に就職します。
震災後の5月に茨城で生乳を探す傍ら、
瓦礫に埋もれた港町で、
ゴミの中から宝物を探し当てるも、
火事場泥棒として追われてそこから逃走し、
西陽荘といううらびれたアパートの一室に、
その身をやつしているのです。
一緒に宝物を探した仲間の姉が、
その坂巻の前に謎の同居人として現われ、
30円しか預金のない預金通帳を坂巻に渡して、
そこから姿を消します。
それは一種の詐欺の手口で、
30円しかない通帳に、
お金を入れさせようという色仕掛けなのですが、
その2人がおでん屋で再開するところから、
物語は過去へと向かって動き始めます。
オープニングからおでん屋に舞台が移り、
次々と怪しげな登場人物が、
小気味良いテンポで登場する当たりは、
いつもながら快調で、
唐芝居ならではです。
今回は非常に劇中歌が多いのが特徴で、
稲荷卓央はいきなり3曲を歌い上げます。
以前から劇中歌を作曲して来た安保由夫が、
「氷雨」1曲しかレパートリーのない流しを演じますが、
これが抜群に快調で、
こういう存在感のある不器用な役者が、
キラリと光るのが、
唐芝居のこれも醍醐味です。
唐先生自身は、
赤松由美演じる妖艶なクラブのママの用心棒を、
喜々として演じていますが、
安保由夫の流しと同じように、
こうしたうらびれたヤクザな男達は、
いずれも唐先生の分身であるように、
僕には思えます。
この作品には人間同士の対立はありますが、
唐先生のこれまでの芝居には付き物の、
血の流れるような切った張ったはありません。
ただ、正直最近の作品で血が流されたり、
大事なものが破壊されたりする場面は、
何か取って付けたような印象があったので、
今回の方がむしろ本来の姿のように、
僕には思えました。
ラストは瓦礫から、
壊れたバックミラーと、
船の舵とが宝物として取り出され、
それがオンボロの船に取り付けられると、
その船がテントの外へと勢い良く船出して行きます。
声高に語られてこそいませんが、
大量消費の時代に絶望した主人公が、
震災の瓦礫の中から見出した希望を取り付けた船で、
幻想の大海原へと漕ぎ出して行くのです。
震災というカタストロフからの復興に向けての、
唐先生らしいシンプルでロマンに満ちた、
胸の熱くなるようなメッセージが、
確かに感じ取れた感動的なラストでした。
寸劇に近い短い芝居ですが、
セットは2幕ともガッチリと出来ていて、
主だった役者の皆さんも、
唐芝居の何たるかを知り尽くした面々で、
演技の細部まで強いこだわりを感じさせました。
戯曲には正直細部はギリギリのところがあるのです。
たとえば、2幕で火事場泥棒に間違われた話を、
稲荷卓央と気田睦が話していると、
その途中で藤井由紀が戸板を倒して背後から現われ、
「その続きは私が話しましょう」
と言うようなところなど、
殆ど戯曲としての体裁を無視したところに成立していて、
ギャグすれすれなのですが、
それを有無を言わさず繋げてしまう辺りに、
唐芝居を熟知したスタッフの凄味があります。
通常のスタッフや役者なら、
「こりゃないよね」と、
頭を抱えてしまうようなところであり、
ある意味戯曲の力を、
120%くらいに高めているのです。
こうした師弟愛に近いものにも、
ちょっと感動を覚えました。
唐先生はひょっとしたら、
今回のような芝居をこそ、
昔から作りたかったのかも知れません。
唐先生は多分、
これまでは「誰か」のために芝居を書き、
上演して来た、
という部分があったのではないかと思うのです。
それは僕達のような無名の観客のためでもあったでしょうし、
唐先生の台詞をしゃべることで成長した、
状況劇場と唐組とを彩る、
多くの役者のためでもあったでしょう。
しかし、今回の芝居では、
そうした装飾物は最小限に削ぎ落とされ、
うらびれたアパートとゴミ溜めと場末のおでん屋とを、
妄想を抱えながら、
決して終わることのない旅を続ける、
一人の美しい初老の詩人の姿があるばかりなのです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は日曜日で診療所は休診です。
朝からいつものように、
駒沢公園まで走りに行って、
草むしりと洗濯をちょっとして、
それから今PCに向かっています。
休みの日は趣味の話題です。
今日はこちら。
唐先生の新作が、
井の頭公園で今上演中です。
最近は上演時間の短い唐先生の新作ですが、
今回も1幕が30分、
10分強の休憩を挟んで、
2幕が25分くらいで、
正味の上演時間は1時間のコンパクトな2幕劇です。
僕は25年以上唐先生の芝居を観続けていますが、
僕の観始めた頃には、
力のこもった芝居ほど、
上演時間も長い傾向がありました。
その点から言うと、
最近公演毎に上演時間が短くなって行くのは、
ある意味ショックではあったのですが、
前回の「ひやりん児」という作品は、
ひょんなことから2回観劇したので、
初回はその短さとラストの唐突さとに、
正直落胆を感じたのですが、
2回目にはその短さは分かった上で、
じっくりと観たので、
いやこれはこれで悪くない、
というか、
唐先生の芝居自体が、
以前のものとはその様相を次第に変えつつあるのだな、
ということを強く感じたのです。
今回はそうした意味では、
現在の唐先生の特質が良く出た作品という思いがあり、
真剣に観たせいもありますが、
ここ数年の作品の中では、
僕は最も好きな1本です。
以下ネタばれがあります。
オープニングに主役の稲荷卓央が舞台に現われ、
暗幕の中央に扉と窓だけが作られた簡素なセットの前で、
「西陽荘の2階には1室だけ片側の窓の壊れた部屋があり…」
のような台詞を、
囁くように語り始めます。
「秘密の花園」や「夜叉奇想」のオープニングにも、
こうした誰に語りかけているのか分からないような、
不思議な独白がありますが、
今回のそれは、
まさに若き日の唐先生自身が、
自分のパーソナルな思い出を、
得意の妄想を交えて、
僕達に静かに語りかけている、
という素敵なムードがあります。
稲荷卓央の語り口が、
また如何にも若き日の唐先生そのものの語り口を再現していて、
それだけで昔からのファンには、
グッと来るものがあるのです。
稲荷卓央扮する坂巻という男は、
以前は大手の広告会社で、
商品を売るための、
コピーを作るような仕事をしていたのですが、
「消費」という、
消えて費やすような稼業に嫌気がさし、
今度はサフランミルクという、
乳製品の会社に就職します。
震災後の5月に茨城で生乳を探す傍ら、
瓦礫に埋もれた港町で、
ゴミの中から宝物を探し当てるも、
火事場泥棒として追われてそこから逃走し、
西陽荘といううらびれたアパートの一室に、
その身をやつしているのです。
一緒に宝物を探した仲間の姉が、
その坂巻の前に謎の同居人として現われ、
30円しか預金のない預金通帳を坂巻に渡して、
そこから姿を消します。
それは一種の詐欺の手口で、
30円しかない通帳に、
お金を入れさせようという色仕掛けなのですが、
その2人がおでん屋で再開するところから、
物語は過去へと向かって動き始めます。
オープニングからおでん屋に舞台が移り、
次々と怪しげな登場人物が、
小気味良いテンポで登場する当たりは、
いつもながら快調で、
唐芝居ならではです。
今回は非常に劇中歌が多いのが特徴で、
稲荷卓央はいきなり3曲を歌い上げます。
以前から劇中歌を作曲して来た安保由夫が、
「氷雨」1曲しかレパートリーのない流しを演じますが、
これが抜群に快調で、
こういう存在感のある不器用な役者が、
キラリと光るのが、
唐芝居のこれも醍醐味です。
唐先生自身は、
赤松由美演じる妖艶なクラブのママの用心棒を、
喜々として演じていますが、
安保由夫の流しと同じように、
こうしたうらびれたヤクザな男達は、
いずれも唐先生の分身であるように、
僕には思えます。
この作品には人間同士の対立はありますが、
唐先生のこれまでの芝居には付き物の、
血の流れるような切った張ったはありません。
ただ、正直最近の作品で血が流されたり、
大事なものが破壊されたりする場面は、
何か取って付けたような印象があったので、
今回の方がむしろ本来の姿のように、
僕には思えました。
ラストは瓦礫から、
壊れたバックミラーと、
船の舵とが宝物として取り出され、
それがオンボロの船に取り付けられると、
その船がテントの外へと勢い良く船出して行きます。
声高に語られてこそいませんが、
大量消費の時代に絶望した主人公が、
震災の瓦礫の中から見出した希望を取り付けた船で、
幻想の大海原へと漕ぎ出して行くのです。
震災というカタストロフからの復興に向けての、
唐先生らしいシンプルでロマンに満ちた、
胸の熱くなるようなメッセージが、
確かに感じ取れた感動的なラストでした。
寸劇に近い短い芝居ですが、
セットは2幕ともガッチリと出来ていて、
主だった役者の皆さんも、
唐芝居の何たるかを知り尽くした面々で、
演技の細部まで強いこだわりを感じさせました。
戯曲には正直細部はギリギリのところがあるのです。
たとえば、2幕で火事場泥棒に間違われた話を、
稲荷卓央と気田睦が話していると、
その途中で藤井由紀が戸板を倒して背後から現われ、
「その続きは私が話しましょう」
と言うようなところなど、
殆ど戯曲としての体裁を無視したところに成立していて、
ギャグすれすれなのですが、
それを有無を言わさず繋げてしまう辺りに、
唐芝居を熟知したスタッフの凄味があります。
通常のスタッフや役者なら、
「こりゃないよね」と、
頭を抱えてしまうようなところであり、
ある意味戯曲の力を、
120%くらいに高めているのです。
こうした師弟愛に近いものにも、
ちょっと感動を覚えました。
唐先生はひょっとしたら、
今回のような芝居をこそ、
昔から作りたかったのかも知れません。
唐先生は多分、
これまでは「誰か」のために芝居を書き、
上演して来た、
という部分があったのではないかと思うのです。
それは僕達のような無名の観客のためでもあったでしょうし、
唐先生の台詞をしゃべることで成長した、
状況劇場と唐組とを彩る、
多くの役者のためでもあったでしょう。
しかし、今回の芝居では、
そうした装飾物は最小限に削ぎ落とされ、
うらびれたアパートとゴミ溜めと場末のおでん屋とを、
妄想を抱えながら、
決して終わることのない旅を続ける、
一人の美しい初老の詩人の姿があるばかりなのです。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2011-10-09 09:15
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コメント(2)
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すごいです!余すところなく語ってくださいました!
ありがとうございます
by ちびすけ (2011-10-14 00:11)
ちびすけさんへ
コメントありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
by fujiki (2011-10-14 13:10)