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必死に生きる、ということ [身辺雑記]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

朝から健診結果の整理などして、
それから今PCに向かっています。

それでは今日の話題です。

今日はちょっと雑談的な話です。

先日ある中学生のお母さんが、
診療所にご相談に見えました。

そのお母さんは中国の出身で、
日本人の旦那さんと結婚し、
日本でお子さんが生まれました。

男の子です。

お母さんはそのお子さんに、
寝物語で中国語を教え、
昼間は日本語を話しました。

それで自然と、
お子さんは中国語と日本語の日常会話を覚えました。

小学校高学年からは英語を習わせました。

英語と中国語を学ぶことが、
この世界で生きる上で重要であることを、
知っていたからです。

お母さんは進学校の中学を、
受験させたかったのですが、
日本人のお父さんは、
所謂「お受験」には反対でした。
子供は伸び伸び育てるべきで、
小学校くらいの時期は、
むしろよく遊んだ方が健全な成長につながる、
という考え方だったのです。
お子さんは遊びたい盛りですから、
お父さんの意見に賛同します。

それで、そのお子さんは公立の中学校に進みました。

中学校でのお子さんの成績は、
概ね平均くらいです。
40人のクラスなら、20番くらいのところです。

お子さん本人は、
「それでいいじゃないか」
という意見であり、
お父さんも概ね同じ意見です。

お母さんはその煮え切らなさに納得が行きません。

中くらいの成績だからと言って、
それでよしとして良い訳がない、
もっとレベルの高い中学校に行けば、
こんな成績ではビリに近いのだろうし、
上を目指そうとする姿勢がなければ、
この厳しい世の中で生き抜くことは出来ないのだ、
とお母さんは思い、
そのようにお子さんに話します。

すると、お子さんは言います。

「僕がどうにもならないんだったら、
僕より成績の悪い20人はどうするの?
その人たちが全員生きられない訳じゃないんでしょ。
お母さんのその言い方はね、
下の20人に失礼なんだよ。
確かに上を目指せばきりがないかも知れないけど、
僕がこれでいいと思ってるんだから、
それでいいじゃない。
本当に困れば誰かが助けてくれるんだって、
先生もそう言ってたんだから」

お母さんが、将来なりたいものはないの、
と聞くと、
そんなのまだ分からないよ、
とお子さんは言います。

でも、大人になって楽をするには、
今から頑張らないと手遅れになるんだよ、
とお母さんが言うと、
お子さんはうんざりしたように顔を顰めます。

「じゃあさ、お母さんは僕をどうしたいの?
何にしたいの?
はっきりこれってものが、
お母さんにもある訳じゃないんでしょ。
あるなら言ってくれれば、
僕もちょっと考えるけど、
ただ頑張れって言われても頑張れないよ。
僕はそんなあやふやなもののために、
今を犠牲にするのはいやなんだ」

でも客観的に見て、
お子さんが現在の生活を、
謳歌しているとは思えません。
常に疲れた様子で、
これと言ったストレスがある訳ではないのに、
家に戻ればゴロゴロしてテレビを見るか、
ゲームをしているだけです。
お母さんがしつこいので、
勉強も少しはしますが、
長続きはせずすぐにゲームに戻ります。

お母さんはそれでもう、
どうして良いか分からず、
常に神経が高ぶって、
お子さんとも旦那さんとも、
喧嘩ばかりしています。

僕はこの話を聞いて、
非常に深刻な思いがしました。

このお母さんの考え方は、
未熟な部分があるかも知れません。
お子さんの可能性を、
ただ、学校の勉強の出来不出来だけで、
考えている点にも問題はあると思います。
ただ、お母さんが苛立っている本当の原因は、
そうした具体的なこととは、
ちょっと違っているような気がします。

お母さんが苛立っているもっとも本質的な理由は、
お子さんも旦那さんも、
必死で生きようとしていない、
ということです。
中国で生まれ育ったお母さんには、
必死で生きなくても社会が生かしてくれる、
というような寝ぼけた考え方が、
とても理解は出来ないのです。

つまりクラスの順番のことは問題ではないのです。
必死で頑張って30番なら、
それはそれで良いのです。
能力はあるのに、
この程度で何とかなるだろう、
とそれで思考停止してしまうことが問題なのです。

そして、その点については、
僕も100%お母さんに賛成します。

弱者救済というのは、尊い理念だとは僕も思います。
しかし、それは強い社会だからこそ実現出来ることで、
既得権のようなものではなく、
社会がその力を失えば、
煙のように消えてしまう儚い幻です。
それを多くの人が履き違えているように、
僕には思えます。
この社会の成員が本当に次の世代に伝えなければならないことは、
全ての人に、個々の立場と能力に応じた必死さがなければ、
今ある全ては消滅してしまう、
ということではないでしょうか。

必死で生きなくとも生かしてくれる、
と考えているような成員から成る社会が、
人間の歴史の中で生き残った例はなく、
こんな危機的な状態にあっても、
何となくそれで何とかなる、
というような考えを持っている限り、
この社会が滅びることは、
最早時間の問題のように思えるのです。

それでは今日はこのくらいで。

今日が皆さんにとっていい日でありますように。

石原がお送りしました。
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コメント 8

rtfk

全方向にめいっぱい力を突っ張るのは疲れるし
誰にもできることではありませんが
何かひとつだけ全力を尽くしたとか
あれ以上できないとか
そういう経験があれば
いろんなことに頑張れると思います。
自分にもいくつかあるのでそれが原動力のような気がします。
by rtfk (2010-12-18 11:19) 

yuuri37

私に、一つ胸を張れることがあるとしたら、それは、たとえ誰に何と言われようと、その時その時を必死に生きてきたと言うことです。好奇心が大せいなわりに不器用で、いつもいっぱいいっぱいですけど・・・
by yuuri37 (2010-12-18 16:59) 

サラ

自分が学生の頃の母を思い出しました。必死に生きるのを教えるのが親として最大の教育じゃないかと思います。それが勉強じゃなくても子供が生き生きして一生懸命にできる事へ親は導いてあげれたらいいんですが。小さい頃の遊びの中で得意分野を見つけてあげとけば少しは子供の力になれるかな。
by サラ (2010-12-18 17:01) 

fujiki

rtfk さんへ
コメントありがとうございます。
頑張りすぎるな、という考えにも、
勿論一理はあるので、
難しい問題だとは思います。
by fujiki (2010-12-19 10:58) 

fujiki

yuuri37 さんへ
コメントありがとうございます。
僕はもう少し必死になれたら、
今も変わっていだだろうな、
という気はします。
でも、根気がなかったので、
仕方がないのかな、という思いもあります。
もう少し回転の速い頭があればな、
とも思いますが、
それも仕方のないことですね。
by fujiki (2010-12-19 11:02) 

fujiki

サラさんへ
コメントありがとうございます。
矢張り何か1つでも必死で取り組めた経験があれば、
それは絶対の財産になると思います。
ただ、親が向かないことにお子さんを強いれば、
却って潰れてしまう結果にもなりかねないので、
そのタイミングは非常に難しいところだと思います。
by fujiki (2010-12-19 11:31) 

ひすい

この記事を読んでから、どうして無気力な子ども・若者が多いのか、どうしたらそういう子どもたちが一生懸命生きることができるようになるのか、考えてました。

私は「必死」まで行かなくても、「一生懸命」「地に足をつけて」「生きがいをもって」生きれればいいと思うんです。

中国と日本では状況がずいぶん違って、日本も高度成長の時代は、もっと必死で生きている人が多かったのではないでしょうか。でも、受験地獄とか働きすぎとかバブルの崩壊とかいろいろあって、「スローライフ」なんていう言葉も生まれています。そこまで必死に勉強しなくてもどこかの大学には入れますし。

だからといって、自立せずに社会や親に頼って生きていていいわけではなく。人として成長するという内面の喜びを感じられるにはどうしたらよいのか。

ゲームとかネットとか逃げ場を与えないように、親が勇気を持ってそれらを奪い、社会に放り出せばいいんですかね。もっというと、ゲームに子守させないで子どもとコミュニケーションをよくとって育てる。そのためには…考えるときりがないです。
by ひすい (2010-12-27 09:21) 

fujiki

ひすいさんへ
コメントありがとうございます。
難しいですね。
僕も正解は勿論持っていません。
ただ、今の子供達が成長する頃には、
確実に今あるシステムは崩壊しているのですから、
僕達は幻想を土台に語るべきではないのではないか、
と言う思いは強くあります。

これからもよろしくお願いします。
by fujiki (2010-12-27 21:45) 

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