屋根の上にいる、ということ [身辺雑記]
こんにちは。
六号通り診療所の石原です。
今日は休みで、
1日家にいるつもりです。
志賀直哉の「暗夜行路」は、
何度も途中まで読んで、
未だに最後まで読んではいません。
最初に読み掛けたのは、
中学生の頃なので、
とてもその作品世界に、
浸れるような年齢ではありません。
それでも何となく分かったような気になって、
多分文庫本の50ページくらいまでは読んだのですが、
どうしても先に進まず、それで立ち消えとなりました。
そのオープニングに、主人公の幼い頃の、
思い出の点描みたいなパートがあって、
その中に、家の屋根に登って、
感情の激しい質の母親に、
怒られる、という描写があります。
確か、この部分だけ抜書きで、
何処かの中学校の、
入試問題に使われたような気がします。
「四つか五つか忘れた。とにかく、秋の夕方のことだった。私は人々が夕餉の支度で忙しく働いている隙に、しも手洗場の屋根へ懸け捨ててあった梯子から誰にも気づかれずに一人、母屋の屋根へ登って行ったことがある。棟伝いに鬼瓦のところまで行って馬乗りになると、変に快活な気分になって、私は大きな声で唱歌を唱っていた。私としてはこんな高いところへ登ったのは初めてだった。普段下からばかり見上げていた柿の木が、今は足の下にある。」
まあ、上手いですよね。
最初にバンバンと短文を置いて、
それから息の長い文章で、
作者の気分に読む者を誘うのです。
小学校の低学年の頃に、
僕も家の屋根に登ったことが何度かあって、
それは塀から物置の屋根を伝い、
家の屋根に登ったのです。
それほど広くはない庭の隅に、
矢張り柿の木があって、
それを見下ろすと、
何か素敵な気分になります。
時間も矢張り夕暮れでした。
家の屋根に登るのは、
何故か夕暮れがぴったりですね。
視線を上に移すと、
まだ青い空があって、
地面から見るよりも、
格別に広く深いという気がします。
しばらくそのままにそこにいて、
別に歌を歌ったりはしませんでしたが、
小説と同じように母が庭先に現われて、
僕は叱られて屋根を降りました。
人間に必要な世界の大きさというのは、
多分それほど大きなものではないという気がします。
小学校低学年の僕にとっては、
それは僕の家とその庭先と屋根の上だけで、
必要にして充分という気がしました。
狭い世界から遠くを見詰める時、
人間の精神にある種の思想が生まれます。
屋根の上に登り、
見上げた空に確かに何かを僕も感じた筈なのですが、
今思い出そうとしても、
それは何なのか良く分かりません。
「暗夜行路」はこう続きます。
「西の空が美しく夕映えている。烏が忙しく飛んでいる…」
この…の内容は、決して語られてはいないのですが、
矢張りこの作者も、夕暮れの空に、
何か存在の根底に関わるような、
思想の欠片を感じたような気がします。
その思想を中断するのは、
常に「母親」のような存在で、
上方へと飛び立つ思念と、
下方へと引き戻すしがらみとの間に、
人間の日常は存在しているのかも知れません。
大人になってから、
不意に屋根の上にいることに気付くことがあります。
そうした場合に人は不安に駆られ、
下から誰かが叱ってくれるのを待つのですが、
今度は誰も母親の役割をしてはくれません。
でも、あなたはもう自分で屋根から降りないといけないのですし、
誰も屋根に梯子を懸けることは出来ないのです。
まだ、屋根の上に居続けるつもりならば、
昔忘れてしまった何かを、
それは取り戻すチャンスかも知れません。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
六号通り診療所の石原です。
今日は休みで、
1日家にいるつもりです。
志賀直哉の「暗夜行路」は、
何度も途中まで読んで、
未だに最後まで読んではいません。
最初に読み掛けたのは、
中学生の頃なので、
とてもその作品世界に、
浸れるような年齢ではありません。
それでも何となく分かったような気になって、
多分文庫本の50ページくらいまでは読んだのですが、
どうしても先に進まず、それで立ち消えとなりました。
そのオープニングに、主人公の幼い頃の、
思い出の点描みたいなパートがあって、
その中に、家の屋根に登って、
感情の激しい質の母親に、
怒られる、という描写があります。
確か、この部分だけ抜書きで、
何処かの中学校の、
入試問題に使われたような気がします。
「四つか五つか忘れた。とにかく、秋の夕方のことだった。私は人々が夕餉の支度で忙しく働いている隙に、しも手洗場の屋根へ懸け捨ててあった梯子から誰にも気づかれずに一人、母屋の屋根へ登って行ったことがある。棟伝いに鬼瓦のところまで行って馬乗りになると、変に快活な気分になって、私は大きな声で唱歌を唱っていた。私としてはこんな高いところへ登ったのは初めてだった。普段下からばかり見上げていた柿の木が、今は足の下にある。」
まあ、上手いですよね。
最初にバンバンと短文を置いて、
それから息の長い文章で、
作者の気分に読む者を誘うのです。
小学校の低学年の頃に、
僕も家の屋根に登ったことが何度かあって、
それは塀から物置の屋根を伝い、
家の屋根に登ったのです。
それほど広くはない庭の隅に、
矢張り柿の木があって、
それを見下ろすと、
何か素敵な気分になります。
時間も矢張り夕暮れでした。
家の屋根に登るのは、
何故か夕暮れがぴったりですね。
視線を上に移すと、
まだ青い空があって、
地面から見るよりも、
格別に広く深いという気がします。
しばらくそのままにそこにいて、
別に歌を歌ったりはしませんでしたが、
小説と同じように母が庭先に現われて、
僕は叱られて屋根を降りました。
人間に必要な世界の大きさというのは、
多分それほど大きなものではないという気がします。
小学校低学年の僕にとっては、
それは僕の家とその庭先と屋根の上だけで、
必要にして充分という気がしました。
狭い世界から遠くを見詰める時、
人間の精神にある種の思想が生まれます。
屋根の上に登り、
見上げた空に確かに何かを僕も感じた筈なのですが、
今思い出そうとしても、
それは何なのか良く分かりません。
「暗夜行路」はこう続きます。
「西の空が美しく夕映えている。烏が忙しく飛んでいる…」
この…の内容は、決して語られてはいないのですが、
矢張りこの作者も、夕暮れの空に、
何か存在の根底に関わるような、
思想の欠片を感じたような気がします。
その思想を中断するのは、
常に「母親」のような存在で、
上方へと飛び立つ思念と、
下方へと引き戻すしがらみとの間に、
人間の日常は存在しているのかも知れません。
大人になってから、
不意に屋根の上にいることに気付くことがあります。
そうした場合に人は不安に駆られ、
下から誰かが叱ってくれるのを待つのですが、
今度は誰も母親の役割をしてはくれません。
でも、あなたはもう自分で屋根から降りないといけないのですし、
誰も屋根に梯子を懸けることは出来ないのです。
まだ、屋根の上に居続けるつもりならば、
昔忘れてしまった何かを、
それは取り戻すチャンスかも知れません。
それでは今日はこのくらいで。
皆さんも良い休日をお過ごし下さい。
石原がお送りしました。
2010-04-25 10:34
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私は今,調子に乗って屋根に上り,
他愛もなくすってんころりと転げ落ちて,
「まったく,しょうのない奴だな」と
ぶつくさ言われながら,
傷の手当てを受けている,
そんな気がしています.
by midori (2010-04-25 12:29)
midori さんへ
コメントありがとうございます。
多分その屋根は滑り易いので、
足元には充分気を付けて下さいね。
でも、その上からは、
素晴らしい何かが見渡せるような気がします。
by fujiki (2010-04-25 20:42)