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粟田麗の涙についての一考察 [演劇]

こんにちは。
六号通り診療所の石原です。

今日は診療所は休診で、
何もなければ、
1日家にいるつもりです。
東京は雨で、不安定な天気です。

今日は是が非でも進行させたい作業があって、
遅れに遅れているのですが、
何とか今日は頑張りたいと思っています。
私的なことなので、
こんなことを書かなくてもいいのですが、
敢えて書くのは、
すぐに心がめげそうになるからです。
悲しいことですが、
気力も体力も確実に時と共に落ちて行きます。
この記事を書いたら、
遮二無二やります。
(多分)

昨日の帰り道で、
時々お子さんと診療所に見えているお母さんに会ったので、
挨拶をしたら、
無視されました。
それまではそこそこ気分が上向きだったのですが、
その瞬間に地獄に落ちたような気分になって、
事情も分からないし、
仕方がないのですが、
前回の受診の時に、
何か不手際があったのだろうか、
それとも急に体調が悪くなったのかしら、
ご不快に思うようなことがあったのかしら、
と考えていると、
もうすぐに絶望的な気分になって、
望まれていないなら、
仕事をしていても意味がないな、
これから何処か遠くへ行ってしまおうか、
寂れた温泉旅館に辿り着き、
布団部屋の片隅をあてがわれて、
お風呂のタイルを磨き、
それほど美しくはない女将さんに取り入って、
隠遁生活を送ろうか、
それで、ある日泊り客に急病人が出たら、
そこですっくと立ち上がって、
医者であることを明かしたら、
さほど美しくはない女将さんが、
ちょっと見直したような視線を送ってくれるかしら。
でも、僕は外科医ではないので、
傷1つ縫うことが出来ず、
「あら、そんなことならいなくても同じだわね」
と言われて、
その視線にお母さんの無視を思い出して、
再び絶望を感じたらどうしよう、
と、馬鹿なことをエンドレスで考えているうちに、
もう9時になりました。

ええと、今日は演劇の話をします。

墨田区の倉庫街に、
ベニサンピットという魅力的な劇場があって、
そこを15年以上に亘って、
ホームグラウンドにして活動していたのが、
TPTと言われる団体です。
イギリス人の演出家、
デヴィッド・ルヴォーを長く藝術監督に置き、
初期は日本でも以前から新劇で上演されていたレパートリーを、
日本人とは違う感性で演出。
その後は日本人の演出家も育てつつ、
地味でマニアックではありましたが、
意欲的な上演を続けています。

そのベニサンピットは今年経営上の理由で、
閉鎖となりました。

今日は2004年のTPTの舞台で見せた、
粟田麗という女優さんの、
涙についての話をします。
少し前に「チェーホフの世界」の中で触れたのと同じですが、
何となくさらっと書いたので、
今日はその完全版です。

TPTは2004年の12月、
ホームグラウンドのベニサンピットで、
チェーホフの「三人姉妹」を上演しました。

2004年は僕にとっては特別な年で、
デセイさまの初来日が9月にあって、
その感動が覚めやらぬまま、
また別種の感動でその一年を締め括ってくれたのが、
この舞台でした。

粟田麗は市川準監督の、
「東京兄妹」で抜擢デビューし、
その後はこんな言い方は失礼ですが、
割合と地味に活動している女優さんです。
その彼女がこの舞台では、
三人姉妹の三女イレーナを演じました。
ちなみに長女オルガに奥貫薫、
次女マーシャに中川安奈、
というキャストでした。
他のキャストも悪くはなかったのですが、
粟田嬢のイリーナは、
魂の乗り移ったような熱演で、
100年前のチェーホフの世界が、
一気に現在に引き寄せられたような思いを味わいました。

正直それまで「三人姉妹」を舞台で見て、
面白いと思ったことはありませんでした。
同じTPTで10年以上前にやった、
デヴィッド・ルヴォー演出の舞台も、
眠気を堪えるのに苦労しました。

これは難しい作品ですよね。
4幕劇ですが、
人間関係のスケッチ的な意味合いの1幕を、
観客を退屈させることなく乗り切るのは、
至難の技だと思いますし、
3人のヒロインが、
それぞれ別種のドラマを抱えているので、
そのまま平坦に上演すると、
ポイントが摑み難くなるんです。
2幕ラストの「モスクワへ」の呟き辺りから凄味を増しますが、
そこまで移り気な今の観客を惹きつけていられるかどうか、
難しいところだと思います。

2004年のTPT版も、
決して全て良かった訳ではないんです。
でも、比較的若手のキャストで、
こう言うと失礼ですが、
技量は今一つの役者さん達が、
端正に楷書で演じているのが好感が持てました。

そして、ポイントはイリーナです。
花のように輝いていた1幕の若いイリーナが、
2幕で労働の喜びを語り、
恋を告白される。
そして3幕、
仕事に疲れ人生に絶望したイリーナが、
突然泣き叫び始める所が、
僕には衝撃的でした。

粟田嬢のイリーナは、
舞台中央のオルガの方に、
舞台の対角線を鋭角に横切るように、
疾走して来るんですね。
そして、オルガの前に、
崩れ落ちるようにして長セリフに入ります。
その姿は、全ての挫折した人生の悲しみを、
代わりに背負っているように見えました。
そして、目はたちまちに充血し、
涙が頬を伝います。
コントロールされたものではない、
本物の涙でしたね。
と言うか、チェーホフのセリフが、
その涙を引き寄せたように見えました。
本当に切なくて、僕も泣きました。

4幕にはもう一つの名場面が待っています。
イリーナを愛していた若者が、
決闘に行くんですね。
その前に、決闘のことは言わずに、
イリーナに逢いに来るんです。
イリーナはその若者と結婚の約束をしたんですが、
イリーナの心に愛はなくて、
相手の若者もそのことは知っているんです。
若者の方は既に死ぬ気で、
最後にイリーナに、
嘘でもいいから自分を愛している、
と言ってほしくて、
そう尋ねるんですが、
イリーナはそれを無視するのです。
舞台は森で、
静寂の中にあります。
若者は背後からイリーナを抱いて、
2人は視線を合わせないままに、
客席の方を向いています。
そこで若者があまりその場に関係のない話をして、
その瞬間、
イリーナは若者が自分が愛していないがために、
これから死にに行くことを悟るんです。
セリフはありません。
その時の粟田嬢の表情が、
婚約者が死を選び、
自分がそれを止めない決断をしたことを、
何よりも雄弁に語っているんです。
一滴の涙が零れます。
3幕のようなダイナミックなものではなく、
非常に繊細で刹那的な涙。
数秒の後、若者は別れを告げて去って行きます。
凄い芝居でした。
そして、若さだけが表現出来る性質の藝でもありましたね。

あまりに良かったので、
急遽もう一度観ることにしたんです。
楽日でした。
東京は雪が降っていましたね。
演出家も客席に控えていました。
その日のイリーナも素晴らしかったんですが、
でもね、その日は3幕でも4幕でも、
粟田嬢は涙を流せなかったんです。
僕は藝術の不思議を見た気がしました。

コントロールされた感情は、
決して感動を呼ばないんです。
そして、基本的に藝術は一回性で、
再現されるものではないんですね。

たとえば、「放浪記」を1500回やったとか、
「勧進帳」の弁慶を500回やったとか、
そういう話がありますよね。
そのうちの1~2回は僕も見てはいるんですが、
それはある種の根気と訓練の成果ではあっても、
僕の感じる藝術というものとは、
程遠い世界です。
あの人達は自分の生活と名声と、
多くの人と一緒に娯楽を共有したいという、
一種の大衆主義のために、
藝術に捧げることも可能であった筈の才能を、
1000倍に薄めたものを日々提供し続けている訳です。

その一方で、
ごく小さな劇場でささやかに演じられた舞台の中で、
100年前の魂が現代の肉体と出逢い、
一晩の奇跡が体現されることがあるのです。
生身の藝術というものの、
これが僕にとっての最大の魅力ですね。

今日はマニアックな趣味の話題でした。

皆さんは良い休日をお過ごし下さい。
僕は何とか頑張るつもりです。

石原がお送りしました。
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コメント 4

xxxxx

いつもお世話になっているものです。

挨拶されたら無視されたと思われたお話、私の印象ですけど、
先生は診察室で会う印象と、
外や院内の他の場所でお見かけする印象が
つながらなかった経験が何度かあります。

座られていると背中丸められているので分からないんですけど、
立ち上がるととてもスラッとされているんですよね!!
なので、気付かなかったのではないかなぁ、と思います。
それに、女性は視野が狭い方が多いですしね。

私は先生を頼りにしていますよ(^-^)
温泉旅館に行くのは遊びだけにしておいてください!
by xxxxx (2009-03-22 15:58) 

fujiki

xxxxxさんへ
ご心配おかけして申し訳ありません。
ありがとうございます。
猫背気を付けます。
これからもよろしくお願いします。
by fujiki (2009-03-22 16:32) 

midori

「東京兄妹」 好きな映画でした.懐かしい.
あれを観て,鬼子母神のあたりに住みたいなと思ったものです.
地味だけど雰囲気の良かったあの女優が粟田麗,あぁたしかそんな名前でした.
いまも舞台で活躍されてるんですね.

by midori (2010-02-09 12:47) 

fujiki

midori さんへ
コメントありがとうございます。
これは2004年の話なので、
今はどうされているのか、
よく分かりません。
by fujiki (2010-02-10 08:07) 

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